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近況報告

・・・のつもりがいつの間にか気まぐれコラム。


1999年1月〜2001年12月分です。

「車」 2001.12.9

 今年で12年目の愛車ダイハツ・ミラTRXXも相次ぐ故障と車検もあり、今月1日に新車を購入した。新しい愛車はスバル・プレオRS。新車購入は初めてなので、かなり悩んだが、トータルとしての車にかかる費用は中古車を乗り継ぐ方が安いと言うのが私の持論を曲げ、知り合いの薦めもあり、考え抜いた上に新車の購入を決断することになった。

 私の車に対する主義として、基本的には大きな車に乗りたくないと言うのがある。というのは、毎日数キロ程度の通勤にしか使わず、年に数回アウトドアに行くか行かないかなのに、大型のRV車なんかに一人で乗って、必要以上のガソリンをばらまくのがあまり好きではないからだ。私も嫁も体が小さいし、家族以外の人間を車に載せることがほとんど無く、車のパワーに激しい思い入れが有るわけでもない。だから、購入車種は軽自動車であることは最初から決まっていた。その中で自分の生活に必要な条件を加味して選定を行った。必要な条件として次の事が挙げられる。

 @隔週で高速を200km走るので、高速での快適走行、追い越しのしやすさを考え、過給機付きの自動車
 A嫁に運転させたいので、AT車(MTはいやがって運転しない)
 B4ドア。将来と使いやすさを考えて
 C車高160cm以下。実家の駐車場による制限

 後は、自分の趣味と車のコンセプトで決めようと考え、とりあえず全軽自動車メーカのディーラーを回った。その感想を書いてみようと思う。

 ホンダ:あまり売る気が感じられなかった。ライフ(NA)、ダンク(ターボ)が目当てだったが、格好良さが全面に押し出され、エンジンは旧世代の古いエンジンのまま、しかもATミッションは三速のみと他社との見劣りは避けられない。軽自動車ではなく、どうせだったらFITを買ってね、って感じだった。車高も高い。
 スズキ:TRXXに乗っていて、唯一高速で軽に負けたと思ったのはWORKSだけだったので、WORKS目当てで見に行ったが製造を辞めた様だ。(オーナーから根強い人気がある)WORKS後継機としてはKeiがあり、ワゴンとしてはRとRRがあった。Keiはアルミエンジンとターボ、15インチのタイヤ、低車高が良かったが、カーゴスペースが小さく、三気筒のみ。ATではスポーツシフト無しでコラムでは無い。RRは車高が高い。Keiが安そうだったので見積もりをとって値下げ交渉もしたが5〜6万程度の話から一切進展しないので、あきらめた。売れているのか、かなり強気だった。
 三菱:営業さんの感じが良く、すぐに試乗車に載せてくれて、熱心な営業ぶりだった。ここでの目当てはeKワゴン、残念ながらターボ車がラインナップにない。試乗車に乗ったが、悲しくなるほどの非力ぶりだった、特徴であるセンターコンソールに収まったメータはそれほど違和感は無かった。エアロ車はあるが、ターボがなきゃねー。今後、ターボ車も売りだされるらしいが、現状では三菱に用はなさそうだった。トッポは車高が高くて×
 ダイハツ:本命の一つ、NAKEDが目当て。ムーブに乗りたかったが、車高が高い、値段が高いで×。TRXXの後継機アバンツアートは製造をやめていた。NAKEDはそのコンセプトと実用性(カーゴスペースの大きさ、オプションインテリアパーツの豊富さ、バンパーぶつけたときの修理代の安さ)、ターボとかなり気に入っていたが、マイナス点はその格好悪さだった。乗り心地も悪そう(空力、サス)だったので、絶対試乗したかったが残念ながら試乗車は用意してもらえなかった。本格的な値段交渉では、他社見積もりと雑誌の値引き相場をだしにかなり粘ったが、7万円程度の値引きで全く話にならなかった。ダイハツに乗りたかったが非常に残念。MAXは車高が低く、スポーツシフトなどがありRSはまあまあかっこよかったが、出たばっかりで納車が間に合わず、値引きも難しそうだったのであきらめた。
 スバル:コンセプトを聞いてもばしっと答える。良い車だから是非買って欲しい!と言う熱意が一番感じられたのが、スバルだった。目当てはもちろん、プレオ。最初、あまりよく調べないでディーラに行って、一から説明してもらったが、聞いている内にどんどん欲しくなっていった。軽自動車だからといって一切妥協をしなかったと言うだけあって、プレオの装備(特にRS)は軽自動車としては最高である。まず、サス。これは4輪独立懸架でさすが足周りのスバル、軽ワゴンクラスでは唯一。エンジンは、4気筒(静か〜)DOHC16バルブ、しかもスーパーチャージャー(もちろんインタークーラ)。ATミッションはiCVT(VIVIOの電磁クラッチと違いトルコン)、しかも7速スポーツシフト(セミオートマモード)付き。ブレーキも四輪ディスクブレーキ(普通の車は、前のみ)。こんな装備、軽自動車で見たことない、普通車でも珍しい、と言う感じで、ぶっちぎりで他社製品に差を付けていた。他にも、オートエアコンだったり、CD+MDが標準装備だったり、デュアルエアバックほぼ全車種装備、コラムシフト、ストーンガード(サイドスポイル)付きだったりと私の希望を遙かに超える満足度。試乗をさせてもらった時は、そのまま家に乗って帰っちゃおうかなー、と思うほどの感じの良さであった。ここでは、NAKEDを当て馬に、一日掛けてかなり気合いを入れて値段交渉をした。正直、気持ちは完全にプレオに決まっていたが、新車はやはり高い買い物。全力で、もてる技術を全てぶつけていった結果、雑誌相場を軽く超える値引きを実現させた。(値引き額は内緒)
 実のところ、軽自動車は販売価格が元々低いため、大幅な値引きが難しい。各社とも基本的な値引き設定は足並みを揃えているため、見積もりを持って歩き回ってもあまり効果が期待できない。(どこの会社も同等グレードの見積もりを取らせると、ほぼ同じ値をはじき出した)私の場合、全社を回って情報を集めたあと、ダイハツとプレオに的を絞って、気持ちを集中させた。後は、予算提示と余計な物(納車費用は自動車公正取引委員会の解釈上、買い手が依頼する物で、メーカー→ディーラー間の輸送費ではない。絶対に省いてもらおう!)を省いてもらって、根気よくオーソドックスな値下げ交渉を続けるだけだった。いきずまったら、安易にあきらめず、「また来ます」等と言って粘る。平日や月末(登録日が末日になる位に)の方が有利な場合もある。粘れば、省いてもらってる物も、「これも付けますから」と帰ってくることもある。とにかく、なるべく妥協するのを後回しにして、よく話しこむ(わからないことは、「なぜ」と質問する)ことに重点を置いて交渉したのが良かったと思う。
 納車日は朝から大変だった。ミラにスタッドレス(処分してもらうために)を積み込んでいると、車がパンクしていることに気が付き、テンパーに切り替えたが、空気が抜けていた、スタッドレスも当然全て空気が抜けていたので、しょうがなく空気の抜けたテンパーでガソリンスタンドへ行き自分で空気を入れた。空気入れを買っておく必要性を強く感じた出来事だった。ミラも本当に最後までよく頑張った、そろそろ眠らせてあげよう、そんな気持ちになった。予定より少し遅れて、ディーラへ到着。ミラに別れを告げて、その足で加古川にドライブへ。やはり、プレオの乗り心地はすごかった。現在までのプレオの印象を参考までに書いておくことにしよう。
 先ず、それまで乗っていたミラとの大きな違いはAT車、しかもiCVTということだろう。これまでAT車には結構乗ったことがあったが、あまり良い思い出がなかった。5MTに比べて、シフトダウンで必要以上に回転数が上がり、坂道では息苦しくなる。また、うるさい。パワーのある車ならまだしも、自然吸気のリッターカーでは、AT車は私の5MTミラターボ(550cc)に勝てないと思う。ある程度速度が乗ってくれば、AT車は快適で運転しやすいが、眠い。AT車は遊星歯車機構(クラッチを使わずに固定、回転だけでギア比を変化させる)という複雑なトランスミッションを持っているのでMT車のようにたくさんのギア比を準備する事が難しい、結果として常時、適切なトルクで走ることができなくなる。プレオは変速ギアを持たずiCVTという無段階変速機構を持つ。これはプーリー(滑車)の幅を変化させて、ベルトの位置を変える事で回転半径を無段階に変更しギア比(プーリー比)を変える物でスクータなんかに利用されている変速機構だ。この場合、加速時に適切なギア比でトルクの一番でるところだけを利用することができる。また無駄に回転数を上げることが無いので、ガソリンの無駄が省ける、トルクの要らない定速走行時にはエンジン回転数は下がり(100km/hで、2800rpm位)非常に静かである。プレオRSにはスポーツシフトというセミオートマモードがある。iCVTは遊星歯車機構と異なり無限のギア比設定が可能なので、7速の固定ギア比が用意されている(1,2速はギア比にある程度幅が設けられている)。結構、操作が忙しいのであまり使っていなかったが、最近だいぶ慣れてきた。特徴としては、エンブレが効く、引っ張れる等がある。また、レスポンスが0.1秒以下と非常に速い(普通のATでは変速時にはかなりのタイムラグがある)。しかし、変速には癖(制約)があり、使いこなすには、まだまだ時間がかかりそうだ。
 次に、スーパーチャージャー。ターボ車のとり回しにはかなり自信があったが、やはり感覚はかなり違う。スーパーチャージャーは過給機で空気を加圧し、加熱した空気をインタークーラーで冷やして密度を上げて、混合ガスの吸入量を上げると言う点ではターボと全く同じ原理である。ターボが排気ガスでタービンを回し、過給を行うのに対し、スーパーチャージャーはエンジンの動力を使ってコンプレッサーを回す点で異なる。ターボが高回転(ミラでは3000回転以上)で踏み込んだ時に効果を生ずるのに対し、スーパーチャージャーは低回転から過給機が効果を発生して、低回転でもトルクが太くなる。結果として、ラグが無く、広い回転数域でトルクが太くなり、リッターカーの様な走り方になる。ターボは低回転では、へろへろだが、高回転になれば高回転になるほど良く回り、ベルトを使っているスーパーチャージャーに比べ過給ロスが無いのでどんどん速くなっていく。ミラは、「速い軽」と言うイメージで、低車重の特徴を生かした高速での加速感や坂道の力強さはすごい物が有ったが、低速で回転数は高く、スタートのもたつきや振動・騒音のひどさは否めなかった。一方、プレオを乗った感じでは、「普通車に近い軽」で、町中での加速中の回転数は高くて3000回転程度、定速走行時は約1800回転まで下がり、とにかく静か。変速が段階的でないのでスムーズな加速、高速にはいっても回転数がそれほど上がらないので乗り心地は良く、疲れも感じない。しかし、車重が普通車と変わらなくなったせいで(安全性能が上がった事や、サイズが大きくなった)登坂での減速や、加速の鈍さはミラの時より強く感じるようになった。
 それから5ドアで荷物の積み込みが楽になった事も大きい。ミラは荷物の積み込みで苦労した事も多かった。後部座席に物を置くと取り出すのも大変だったし、人の乗り降りも大変だったので、「この車は二人乗り」と割り切って使っていた。プレオでは後部座席は分割してリクライニングできるし、5ナンバーなのでミラに比べゆったりしており、嫁に運転してもらうときは、後席でゆったりすることが多くなっている。もちろん、荷物の出し入れも楽で、買い物袋掛けで荷崩れが防げるのもGOOD。
 などなど、語り尽くせないが、楽しくプレ男ライフを楽しんでいるのであった。

「夢」 2000.5.9

 私にとって最も忙しく、辛い数ヶ月が去った。
 全てのドクター審査が終了し、何とか残すは学位授与のみとなった。ここまでの道のりは本当に長く険しい道だったが、とにかく、迷える私をここまで導いてくれた恩師川崎昌博先生、私の共同研究者でありパートナーであった藪下君、井上君、そして私を支えてくれた妻に、この場を借りて心より感謝したい。

 二年半の派遣終了を経て、会社と大学の二足わらじで通した一年間は予想以上に苦しかった。何が苦しいと言っても、後半、会社の仕事が面白くなってきても、学位論文の構成を積み上げる作業と集中力を二分し無くてはならないところがどうしようもなく辛かった。頭がとにかく混乱して、睡眠時間も平均4時間が続き、体調を崩さないようにするのが精一杯。我ながら良くやったとほめてやりたい所である。
 ここで、一般の人々には少し縁遠い博士課程について説明をしておきたい。あらかじめ、断っておくがこれは私の通った大学に関して、私の体験した事に基づくものである。

 大学に入ると普通四年間の学士課程を過ごす。ここでは、一般的な教養を養うための授業で一年半、残り1年半で専門課程、最後の一年で講座配属後、卒業研究を行う。そうして学士号(Bachelor)を得る。この時、学生は自分の進路を選択し、工学系の場合約80%以上が修士課程に進学する。(この際、自分の興味に合わせて大学学部学科を変更することはもちろん自由である。ただし、いずれにしても試験に合格せねばならない)修士に進学した学生は、ある程度授業を受けながら、二年間に見合う研究テーマをもらい、先生方の指導の元にひたすら研究を行う。最後に研究内容をまとめ、発表し、修士論文を作成して修士課程を修了する。ほとんどの学生はここで、就職を果たし大学を去るが、ごく一部の、研究に情熱が失せず適正を見いだした者と、単に勘違いした者、就職にあぶれたものが博士課程に進学する。(この際にも、自分の興味に合わせて大学学部学科を変更することは可能であるが、修士の時よりは、もう冒険はできない。当然、試験にパスする必要がある。)私の場合はもちろん、二番目のケースであったが、金銭的な面からストレートでの進学をあきらめ別の形での進学を試みた。
 博士課程(正確には、博士後期課程と呼ばれる)では三年間の研究期間が学生に与えられる。この間、特に授業を受ける義務はなく週一回のゼミをこなす程度で、後は、ひたすら研究に打ち込むことが可能である。学生は寝食をを忘れ全ての生活を研究に捧げ、家族や恋人を犠牲にする者もいるが、そうでない者もいる。・・・などと書くと面白くないので、もう少しつっこんだことを書こう。
 実は、博士課程の学生の仕事は一つではない。私が思うに三つある。一つ目は実験マネージメント、二つ目は投稿論文の作成と学会発表、三つ目は研究室における雑務である。
 実験マネージメントとは後輩学生の指導、実験計画、方針決め等で仕事の中核をなすものである。時には、博士課程の学生が主催して自分たちに直接関係ある知識を勉強するため、自主ゼミを行うこともある。一方、投稿論文は博士課程を修了するために必ず必要となるものであるから、こつこつ進めなくてはならない。投稿論文(paper)とは研究分野における重要度の高い雑誌に掲載するための論文である。各研究分野には必ず重要度の高い雑誌と言うのが存在する。通常、英文の雑誌で様々な国の雑誌社が国際的に学術度の高い論文の投稿を受け付けている。当然、掲載にはそれを審査するレフリーがいて、投稿されてきた論文をreject(拒否)したり、修正を指示したり、accept(受理)する。これらレフリーは、投稿されてきた論文の分野に直接関係する研究者数人からなり、このレフリー自身もその雑誌の投稿者であることが多い。更に、このレフリーが誰であるのかは投稿者本人に明かされることは滅多にない。雑誌投稿には、自分の研究分野や論文の内容の性質がその雑誌に見合うか検討してから行わないと、このレフリーからrejectされたり他の適切な雑誌への投稿を勧められたりもする。うまくacceptされると、数ヶ月後、reprintと呼ばれる別刷りが届き掲載される。この時、一般的な認識からはずれているのは、投稿雑誌では原稿料がもらえるのではなく掲載料を投稿者が支払わねばならないことだ。この額は雑誌によって大きく異なり、数万円から十数万円もかかる。
 この雑誌投稿を行うには、もちろんデータが必要であるから、実験がうまく進まないといつまで経っても論文が書けない。私の通った大学の場合、投稿論文数がそのまま博士論文の各章となるので、ある程度幾つかのテーマを持ってできるだけたくさんの論文を書かねばならないことになる。また、投稿論文は、研究に携わった複数の研究者の名前が著者になる事が普通であるが、著者の列記順序には決まりがあり、実際に論文のベースを書いた人がfirst authorで二番目以降は共同研究者、そして最後にボスの名前がくる。何番目に名前が来ていてもそれはもちろん自分の業績となるが、自分の名前がfirst authorとなる論文は実際には扱いが異なる。このfirst authorの論文がいくつ有るかも実質的には業績判断の一つの目安になりうるのである。投稿論文以外にも日本語のレビューや一般書の出版も副次的に業績として加味される。
 また、同じような事柄としては、学会発表があるがこれはたいして業績判断の目安とはならない。学会発表は論文にするまでの問題提起やディスカッションの肥やしとなるところにその重要性が有ると思う。
 さて、最後の三つ目の仕事が、雑用である。これは、研究室の教授の方針に左右されるが、研究費の申請書の作成のお手伝い、学会の資料作りや開催準備、研究室の備品の管理やメンテナンス等がある。それ以外でも、これは博士学生に限った事ではないが、研究室での催しの責任者や外人来客のお世話なども含まれる場合がある。これら雑用は、博士課程の本質では無いが、取られる時間は結構多い。博士課程の学生は、学生でありながら半ばスタッフ的な立場に有ると言えるだろう。
 これらの仕事をこなしつつ、着実に業績を積んで、『教授の裁量』で、博士課程修了要件に基づく目処がたったなら、博士論文の作成に着手せねばならない。博士論文は明確にこれでなくてはならないと言う決まり事は少ない。しかし、研究分野それぞれに合った博士論文の形というのは慣例的であるが存在する。まず、言語は特に決まりはない。聞いた話だが、ドイツ語で書いた博士論文も存在するらしい。しかし、慣例的に英語が使われる事が多い。日本語でもOKである。博士論文には幾つかの章が存在するが、各章は投稿論文として発表されている事が必要である。これについては、大学や学部によっては正確に定めていない所も有るとは思うが、基本的には投稿論文として発表された内容についての詳しい説明によって博士論文が構成されることになる。ページ数については規定はない。よく見かけるのは、50〜150頁程度で、あまり短くても変だが、だらだらと長すぎるのはもっと変である。細かい規定としては、提出時に製本済みであることや、末尾にpublication listを載せる等が有るが、字体や製本姿に細かい規定はないのである程度学生の好みで作られ、指導教官によって細かい内容のチェックが行われた後完成の運びとなる。この博士論文執筆にかかる期間は、人それぞれだが、だいたい2〜3ヶ月程かかる。
 このようにしてようやく論文が完成すると、この後、ひと月〜ふた月かけて長い審査の期間が訪れることになる。予備検討から始まり、公聴会まで、審査委員の選定や、論文審査・口頭審査などその規定は細かく形式張っており、提出書類は十数種に及ぶ。公聴会(論文の発表会)のセッティングや書類の提出には細かい期限と手続きがあり、あまりの複雑さに訳が分からなくなることもある。(この書類はいったい誰が書くべきなのか、一見してわからないことも多々ある)何とか要領よく手続きを済ませ公聴会までこじつければ、もう一息。論文の内容をチョイスしてつじつまが合うよううまく発表内容を構成して、発表準備を十分に行えれば、後は当日、発表後、落ち着いて審査の先生方の質問に答えれば良いだけである。そうして、晴れて全審査の終了となり、数週間後、主査の先生が会議で結果報告を行い学位の発生となる。
 以上が博士課程の主な事柄である。博士課程修了で最も重要となるのはやはり、指導教官である教授の裁量であろう。多少、論文数が少なかったり、思わしく研究が進まなかったとしても、指導教官が博士課程の学生として十分な素養と成果があると認めれば、副査の先生方は主査である指導教官の先生を信頼して審査を進めてくれるはずである。言い換えれば、指導教官がよしとすればよしとなるのである。しかし、なあなあでも良いと言うことではない。指導教官の先生は、卒業していく学生に対し責任が有るから、その他の教授の方々との信頼関係を壊さ無い為にも、学生の博士審査に対し十分に気を配る。それがつまり、教授の裁量が重要である事の意味である。
 しかし、これだけ苦労して得たPh.Dの肩書きも特に将来を約束してくれるものでは決してない。卒業者の多くはその就職口で頭を抱えることとなる。博士で無くてもできる職業はたくさんあるが、博士でないとできない職業はそう多くない。つまり、受け口は学士、修士に比べて極端に少ないのである。(同じ仕事をさせるなら、年取った人間より若い人間を取った方が給料も安いし小回りが利く)多くの学生は、ポストドクターとして公的研究機関での研究職を探す。しかし、これとて一時凌ぎのようなもので、短期の契約であり、契約切れになる度に継続の申し込みをしたり、大学を転々とすることになる。とても定職と呼べる生活の安定は無い。運良く恒久的なポスト(つまり、助手など)を得るまでには、留学(ポスドクとして)を繰り返したり、途中で転職する等という話は良く聞く事である。よく、『ドクターは足の裏の豆のようなものである。取っても食えないが、取らないと気持ちが悪い』等と言われるが、確かに一理も二理もある話である。

 色々書いたが、博士課程の生活は辛い事ばかりではない、海外への短期の留学や、他の大学や研究機関との共同研究では単なる研究だけでは味わえないような人生の経験や人とののつながりができるものである。また、物事を突き詰める経験は社会に出て事の成り立ちを考える上で役に立つ一つの手法を与える。三年間で得た研究と直接関係ない技術や知識も、全く違う仕事の中で手足となって役立ち、自分を助けてくれる。他の人と違う独自の視点も得られる、と私は思う。

 最後に私にとっての博士とは、人生の一つの『夢』でした。それ以上ではもっと利害が絡み、それ以下では人生にある種の膨らみが無いのです。もう少しして、晴れて学位を授かったとき私は、新たな人生の一歩を踏み出すことができるでしょう。

「会社と大学」1999.4.10

 姫路に引っ越しが済んで久しぶりに会社に行ってからしばらくたった。
 管理部の方に連れられて、新しい部署に来てみると、色々代わる代わる先輩方が私に仕事内容を説明してくれた。分厚い資料を渡されて、これからしばらくは座学が続く事になるだろうと言われた。本格的に実務に入るのはまだ少し先だ。少なくとも、ここで一年間はお世話になるだろうから、先輩方に熱心に聞いて回って早く仕事が覚えられるように私なりに頑張っている。この手のことに関して飲み込みはそれほど悪くないのだ。

 三年前の今頃、私はやはり見も知らぬ部署に次々と放り込まれて包んだり、眺めたり、洗ったり、たまに測ったりしていた。今より新鮮で、何かこう現実世界の仕組みと今までの世界のつながりのような物を紡いで行くような時期だった。
大学と会社とは、しばしば近くて遠い。たいてい学生は、大学で学んだことに対して会社に入ってから役に立つとは本気で考えていない。本気で考えていないから、あまり勉強に身が入らなかったりするのだが、実際に会社に入って大学の勉強が役に立つかと言えば、それは大学で学んだ事と仕事によるのである。ちなみにそれは大学の研究と仕事が分野的に近い方が良いというのでもないが、あまりに離れすぎていてもダメだと思う。丁度良いバランスが就職にもあるのである。まあ、要はその人が大学でどれぐらい多くのことをどれ位深くできたかが重要だと思う。私の仕事の場合、それが大きく響いてくるのは、何か問題が発生したときである。(と言うか、仕事のうちもっとも多く時間を費やすのは、結局、問題解決なのである)何か予期せぬ現象が発生し、これを解決するのは自分が培ってきた知識とセンスが一番重要である。あの本には確かこのことが書いてあったとか、これを調べるにはこの分析法でやれば良いとか、これはこういう反応機構で起こるとか、問題解決の組立のセンスとそういうよそ見しながら歩いてきた経験が結構生きるのである。そうやって考えてみると、今の仕事をやる上で、化学の海で漂ってきた事は間違いでは無かった、と言うかラッキーだったなと思うのである。
 話を元に戻すが、会社に入ったばかりの私はとにかく任された仕事をこなしていたのだが、仕事の節々に伏線のように張り巡らされた大学での勉強との関連に気づくようになったのである。そう言えばこんな事やったよなとか、あの人が言ってたのはこれのことかとか、ああ、これね。と言うようなことが多々あるのである。そういう掴みがあるとそこからずるずる辿っていけば、たいがいの事はクリアになってくるので、仕事の飲み込みが楽になるのである。これは、大学の授業で役に立つのかどうか解らずに買わされた分厚いい教科書に似ている。授業ではほとんど使わないのに、長い間に何かの拍子にちょっとずつ読んで、最後には全部使っているのだ。私にとっての大学での勉強とはそういうものかもしれない。

 その頃の私の姿勢は今でもそう大きく変わっていないのだが、違うところも存在する。それは会社で働いてまた、大学に戻ったからである。今度は大学にいても気持ちは会社員なので、研究の中でどういうことが自分に取って有用か、有用でないか前よりももっとはっきりした形で捉えるようになった。だから、普通の学生が好んでやらないような事でも自分に取って経験を積むチャンスとなるようなことは進んでやってきた。逆に言えば研究の本題とならないことでも、それをやっておいた方が良い、いややらなければならない、と考えるようになった。自分が与えられた時間の間に、これから必要となるだろう基礎体力は付けておかなければ、また会社に戻ったときに、たとえドクターを持っていても、いや持っているからこそ、「お前大学で何やってきたんじゃ」と言う結果は許されないのである。良くも悪くも、そういうプレッシャーは必ず着いて回るのであり私は意識してか、しないでかその道をえらんだ様である。しかしもし仮に私が就職を果たさずそのまま博士課程に進んでいたら・・・。恐らく、漠然と雲をつかむようなスカスカの三年間を就職の不安と共に過ごしていたような気がする。(実際には金が続かなくてやめていたかも知れないが・・・)

 実際まだ、半分学生でドクターもとれるか解らないが、とにかくまた再び会社に戻ってきて、これから先どうなるか見当もつかないけど、とりあえず前よりも物怖じする事は無くなったかな、と。二年半かけてささやかな進歩だけど、私にとってその自信は、とてつもなく非常に大きなステップアップなのである。

「しばらくほったらかしてました」1999.3.13

 ほぼ半年間、ここの更新を滞っていましたが、遊んでいたわけではありません。
 海外と日本を行ったり来たりしていました。
 と言っても、HPをアップロードする暇もなく、ひたすら日本と海外を行ったりし続けてきたと言えば、嘘になります。

 始まりは、去年の10月、兼ねてから予定されていた、日独共同研究の出張でドイツに二ヶ月行ったことから始まります。ドイツ、北部ハノーファから東へ50キロ行ったところにあるブラウンシュバイク工科大学で、レーザ分光の研究をされているゲリッケ教授のメンバーとともに、私は二ヶ月間仕事をしてきました。
 私にとって、ヨーロッパは始めての経験で、建物や言葉を聞いているだけでもものすごい刺激でした。交通システムも日本と全く違い、最初は大変とまどいました。英語はまー、最初はたいしてしゃべれないものの、そのうち何とかなってくるもので、研究所のメンバーはみんな英語が通じるので、所内では大した問題は無く、実験も苦労は山ほどしましたが、最終的にはその仕事の一部が論文となりましたので、大成功だったといえます。

 この二ヶ月で困ったことというのはほとんどなかったのですが、日常生活でもっとも怖かった物は、「おばちゃん」です。スーパのレジに行けば必ずと言っていいほど、でっかいおばちゃんがレジを切っています。このおばちゃんがくせ者です。フレンドリーなのかお節介なのか、頼みもしないのにこのおばちゃんが話しかけてくることがあります。研究所でも、道でも、レジでも、知らない人と会って目が合えば、みんな挨拶をします。当然、ドイツ語で。もちろん、私もレジに入るときはレジの人に一言挨拶します。このとき、おばちゃんが相手だと、三回に一回の割合で、なにやらすごい早口で話しかけてくるのです。私も少し(挨拶と、重要なセンテンス程度ですが)はドイツ語ができるので、片言のドイツ語であーか、こーかと言うのですが、おばちゃんはなにやら、ものすごい早口でまくし立ててきます。当然ほとんど聞き取れないので、「お願いだから、英語を喋って〜。」と言うと、最初の一言目が英語で、その後ものすごい早さのドイツ語で話しかけてきます。そのうち何となく、「あー何だ鞄を開けろっていってんのか。」と、解るのに結構時間がかかります。研究所内でも、掃除のおばちゃんが、話しかけてくるし、フランクフルトでは、おばちゃんに地下鉄のチケットの買い方をドイツ語で聞かれました。歩道を自転車で走っていたり、自転車道を歩いていると(ドイツでは自転車は道路を区別されるし、自動車に近い存在で見られる。そのため左折の際(つまり日本の右折)自動車の前に自転車が並んでいたりすることがある。私は怖くてこれはできなかった)、おばちゃんの場合に限って、呼び止められて怒られます。ドイツ語で。アパートの大家さんも、英語が全く解らず、おかげでかなりドイツ語を勉強しました。研究所を一歩出れば、当然のことですが、バスの運転手も、レストランでもほとんど英語が通じません

 彼らの話では、ドイツ人の多くの若者は流暢に英語を話せるし、観光都市ではほとんどのドイツ人が英語を理解するのですが、そこを離れると、特に年のいった方々は、若いうちに十分な英語教育を受けていない事と、普段英語を使わないために英語を話すのに非常にshyになっているのだそうです。(だが、言ってることはある程度解るらしい)よくパリに行った人の話で、フランス人の多くが、英語を話したがらない、こっちの言っていることは解るのに、フランス語で言い返してくる、フランス人は外国人に対し冷たいと言う話を聞かされますが。彼らが英語を話さないのは、うまく話せないからです。実際、彼らはものすごくフレンドリーなのだそうです。もし、あなたがフランス語を少しでも話せたら。もちろん彼らは英語を聞くことはできますが、ご存じの通りフランス語の発音は非常に特殊で、英語を発音する上で非常な困難を伴います。ドイツ人がフランス語を話すのはそれほど難しく無いのだそうですが、フランス人がドイツ語を話すのはとても難しいことなのだそうです。日本人がfやr、lをうまく発音できないのと同じです。(日本人は正確にドイツ語の単語のトップに来るrを発音するのは、十分な訓練なしにはほとんど無理です。)彼らはそのことを自分で知っているのです。ドイツ人の友達に言わせると彼らは本当にひどい英語を喋るのだそうです。私も、フランス人の知り合いがいますが、彼女は確かにすごい英語を喋ります!(でも本当にいい人なんです!)

 ドイツはおそらくパリよりも英語会話で困る事が無いかもしれないけど、誰もが英語をしゃべれるわけでは無いわけです。このことは、私にとってとても興味深い経験でした。似た言語形態を持つ彼らにとって、英語を話すことは日本人よりたやすいだろうと考えていたからです。しかしそのことと彼らが英語を話せるかと言うこととは、全く別のことだったわけです。(日本人も朝鮮語をほとんど解らない)また、そのことは私を励ます事にもなりました。みんな同じ気持ちを抱えているのだと。英語やドイツ語をうまく話せない事に少しコンプレックスを感じていた私は、そのことで少し気が楽になりました。

 とにかく、二ヶ月は、しっかり働き、週末は研究室の友達に連れられて、フリーマーケットに行ったり、グライダーに乗ったり、ディスコやバーに行ったり、ドイツ語の映画を見ているうちにあっという間に過ぎて、十二月の中旬に帰ってきました。
 先生に出張の報告をし、実験結果の内容が非常に生産的であったことを伝えると、先生は、まだ少し予算が余っているのでもう一回行かないか、と言われ、即答で「はい」と答えました。

 そして、二月から三月までの間、再びブラウンシュバイクに行き、今度は研究室のメンバーのマーク(彼は非常にかっこいい!外見がクールそうだが、実はものすごく優しく、親切で、かつおもしろい!そりゃあ、もてるわ!)のところでやっかいになりました。マークにはブルフというルームメイト(長身でがたいが大きいが、彼もとても親切でおもしろく、哲学肌のFoodchemist)がいて、三人で一つのアパートで暮らしてきました。これは非常に良い生活環境で、家賃も安いし、道具もそろっているし、毎日休まず英語が話せるし、ブルフからドイツ語をたくさん習うことができました。(特にスラングをたくさん教わった、スラングだけという話も・・・)おかげで、英語に関しては、日本の友達と喋るのと全く同じように、冗談や世間話ができるようになったし、なにより考え方を完全に英語にスイッチできるようになりました。(しかし、これも使わないと時間がたつとどんどん難しくなる。)ブルフがドイツ語の小学生の教科書をくれたのでそれで少しドイツ語の言葉を覚えられました。外国語を覚えるのにもっとも良いのは、新聞を読むことでも文法書を読むことでもなく、母国語の教科書をよく読む事だと深く認識しました。

 この一ヶ月も色々な事があったのですが、これ以上書くのはしんどいのでやめます。とにかく、今は日本に帰ってきて、今度は姫路に引っ越すことと復職する事で頭がいっぱいです。

ホントに忙しい人生だ!

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