Taki's HP

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近況報告

・・・のつもりがいつの間にか気まぐれコラム。


2002年1月〜現在までの分です。

「脆性破壊」 2009.1.1


 派遣がバサバサ切られている現実を客観的に見て
 数年先、どんな風に世の中はかわっているんだろう?などと、考えてしまう。
 こういう状況を逆に利用して、望むべき方向性を与えようとする力学も存在するはずで、社会的に与えるインパクトが大きければ大きいほど、与えた方向性に従って引き起こされる応力は大きくなるはず。

 単純なモデルしか思い浮かばないが、
 中産階級への回帰とか、成果主義の崩壊とか、
 過去と現在を比較して、流れを修正しようとする方向性もその一つだろう。

 短絡的に考えれば、

 規制緩和→コスト競争→固定費削減→景況悪化→人員整理

 という、至極当たり前の流れがあって、
 今回の場合、固定費削減の中身が派遣の大量採用であった訳である。

 派遣の人件費はマージンを含めると決して安くないが、実質的には固定費に勘案しなくて良い所にメリットがあった。
 企業にとって物事を決める重要な指標は、損益分岐点である。
 損益分岐点売上を下げようと思ったら、限界利益率を圧縮するか、固定費を下げるしかない。

 ここで、多少コストが掛かっても、固定費を変動費に転換させられる派遣という雇用形態は、経営者にとって非常に魅力的であったと思われる。
 コレによって、色んな事業を起こしやすくなり、
浮いた分の固定費を設備投資の減価償却に当てたりと、
自由度が大きくなり、更に景況変動のリスクも緩和できた。

 近頃、ニュースなどで、大きい工場が立ち上がる話をちょくちょく見かけるが、考えなしに事業拡大すれば、いつか赤字に陥るに決まっている。
 企業の死活問題に関わる投資案件の実現には、しばしば変動費への転換が効果を上げてきた様に見受けられる。

 今、派遣切りに対する批判が強くなってきているが、
その内容を冷静に考えてみると、色んな論点がごちゃ混ぜになっている気がする。
 中でも、上記の本質的な部分のみ考慮すると、

 企業本位で、派遣労働者に不利な法規制

 が、物事の根底にあるような気がしてならない。

 会社は、即物的に派遣を雇い入れて来たが、
 雇われる側も、安易に受け入れてしまったのがどうかと。

 自分には夢があるから、とか
 他に職がなかったから、とか

 色々、派遣になった理由はあると思うが
 会社の思惑と、派遣労働者の思惑が上手く噛み合っていなかった、というか、
 契約意識が薄く、リスクを理解しないまま利用されてきた結果、今になって問題が顕在化してきた気がする。
 ・・・別に、正社員であっても、リスクの結果は同じだけど、より強い意識が必要というイミで。

 経済の世界では「(株式)会社は株主のモノ」という考えが基本になっている。
 実際には、経営者のものであったり、銀行(若しくは他企業)のものであったり、機関投資家のものだったりする訳だけど、基本的には「誰が株式を持っているか?」によっている。
 それは、会社が潰れた場合、株式証券が無価値化するというリスクを、投資家が背負っているからであろう。
 その代わり、株主は会社の背負った借金の責任は一切負わない。
 じゃあ誰が責任を取るのかと言えば、借金の返済は企業の資産売却によって行われる事になるので、会社は資本に見合った総資産を持ち、財務開示を履行せねばならない事になっている。

 株主にとって派遣労働が有益かどうかは上述した通りである。
 極論すると、会社の価値が高まりさえすれば良いのであって、高い人件費を払って固定費を嵩上げしていると、怒られるのである。
 では、派遣労働者が株主になれば良いのか?
 それは、考え方として正しいのかも知れないが「骨を切らせて肉を断つ」自滅戦法になりかねない気がする。
 ところで、これまでの労働者は一体、どうしてきたのか?
 株主(経営者)に対する立場としては、似ている筈の社員労働者と派遣労働者の差は一体何だろうか?
 
 かつて、労働者は搾取されていた。(蟹工船のように)
 そして、労働組合が出来、国がその権利を保護した。
 これが労働三法である。
 派遣労働者には労働組合が認められていないのか?
 当たり前だが、答えは「認められている」であり、常用型の派遣労働者では実際に派遣元で労働組合を結成している例が有るようだ。
 問題は登録型で、バラバラの現場で働いている派遣労働者同士が派遣元で労働組合を結成する例は非常に少ない。
 派遣先ではどうか?
 ご存知の様にユニオンショップ制をとっている企業の多い中、直接雇用されている社員と派遣労働者では協定内容に合致しないものもあり、同等の組合員として扱う事が困難な状況にある。(※ユニオンショップ制の労組がどれほど当てになるのかという問題もあるが)
 結局は、地域労働組合に入るケースが幾らかある様だが、組合費だってタダではないし、そもそも殆どの派遣労働者は派遣先で問題が起こるまでは労働組合の存在を忘れている。

 しかし労働組合が有るとして、それがどんな役に立つのか?
 団体交渉・労働争議を起こす対象として「使用者」が誰か問題になる訳だが、直接の雇用者が派遣会社であっても、派遣元と派遣先の間に派遣労働者の提供に関する契約がある限り、派遣先も「みなし使用者」とされるというのが労働派遣法における一般的な解釈のようだ。
 正直、意味が分からない人も多いかもしれないが、要は一人や二人で騒いでも無視されるけど、団体で大騒ぎすれば、会社は株価に影響する程大きな社会問題になるような場合、株主に怒られないように適切に処理しなくてはならないということ。
 そしてそのような活動を法律は認めており、適切な手順に従って行われるならば、それを企業の公正な競争を促すものとして奨励している事が重要である。
 ましてや、それが法律に抵触するような可能性の有る事案の場合、コーポレートガバナンスやコンプライアンスを標榜する大企業に取っては大きな過失となる恐れがあり看過できない。

 日本弁護士連合会は2008年12月24日、労働者派遣法の抜本改正を求める意見書を発表した。
 以下にその意見書の趣旨を列挙し、私の個人的な解釈を付すと、

1. 派遣対象業種は専門的なものに限定すべきである。

 派遣限定業種を以前の13種程度に戻せと言っている。
 特に、製造業務への派遣拡大と常態化により、給与等処遇格差が不平等に生じた事によると思われる。
 本来、製造業務に携わる人員は、事業主が雇用すべきで、業務内容に著しく差が無いのに処遇に差をつけるべきではなく、不正競争を促しかねない。

2. 登録型派遣は禁止すべきである。

 登録型派遣は極めて不安定な労働形態であり、その結果不況のスケープゴートとなった。
 本来、派遣労働者は派遣元が雇用するべきであり、登録型は業務が無くなった場合の賃金を派遣元が保証しておらず、積極的に雇用を維持する努力が希薄となり、その責務を履行していない点で公平でない。
 派遣労働制度は外国から導入されたシステムだが、外国でもこのような形態は認められていない。

3. 常用型派遣においても事実上日雇い派遣を防止するため,日雇い派遣は派遣元と派遣先の間で全面禁止すべきである。
 
 日雇い労働に派遣しては、雇用者が色々な雇用責任を果たせないという考えから、登録型派遣を禁止しても、常用型派遣で日雇い派遣が横行しないように予防する目的。
 
4. 直接雇用のみなし規定が必要である。
 
 派遣期間終了後の直接雇用義務をみなし規定化することで、違法状態を抑止する。勧告なんぞ手緩いわい。
 
5. 派遣労働者に派遣先労働者との均等待遇をなすべき義務規定が必要である。
 
 「同一価値労働、同一賃金」が原則。安価で雇用契約を切り易い派遣労働は、派遣先にとって好都合であり、派遣労働が蔓延する原因となった。これは著しく不平等である。
 
6. マージン率の上限規制をすべきである。
 
 中間搾取率の報告義務はあるものの、上限規制が無いのはおかしい。有る程度の市場原理が働くとは言へ、派遣料金と賃金には大きな差があるのが現状。
 
7. グループ内派遣は原則として禁止すべきである。
 
 雇用調整の為のグループ企業への派遣は適当でない。また経費削減のため、グループ内派遣会社に転籍させ、そこから派遣労働者として元の職場で働かせる行為もおかしな話である。派遣先は直接雇用して雇用責任を全うせよ。政府改正案は、グループ内派遣は8割以下としているが、全面禁止じゃ、馬鹿者。
 
8. 派遣先の特定行為は禁止すべきである。
 
 派遣先が派遣者を面接して採用する行為は、直接雇用となんら変わりない。派遣法の構造上、不適当であり、このような事は企業が派遣労働の常用代替する事を認めることに繋がるので許されない。

・・・・・・なんで、日本弁護士連合会がこんな事を声高に発表するのか良く分からないが、真っ当な意見のような気がする。
 政府改正案の方針と異なるのは、政府案が「登録型派遣から、常用型派遣へ」切り替えようとしているのに対して「派遣は減らせ!」という強い意志が伺える。
 まあ、経済財政諮問会議辺りが、反発するだろうが、派遣労働を無しに国際競争に曝された日本企業をどのように立ち行かせていくのか?というのも、大きな課題であり、人権だけ重視すれば雇用がなくなっても構わないという人達の考えでは、すまないという事もあろうかと思う。
 結局のところ「格差社会を拡大させて、累進税率を上げ、社会保障を拡充する」以外の選択肢を思いつかないのがなんとも悲しいが、実際そういう方向に進まざるをえないのでは無かろうか?

 この20年、格差の指標となるジニ係数は、増加しているとは言え、その傾きは実は一定である。
 「近年の格差拡大社会」とは言うものの、別に急にジニ係数が増加している訳ではなく、その傾きも絶対値も英国や米国に比べかなり低い。ドイツとどっこいどっこいである。
 これは恐らく、各時代において、急激な格差(歪)に対するブレーキとなる「応力」が働いている事による筈なのだが、これが何であるのか、実際のところよく分からない。
 私はひょっとすると、日本社会の美徳のような物が強い応力になっているのではないかと信じている。
 そしてその応力を若い日本人が失わない事を願ってやまない。

 そんな事を考えつつ、鼻水をすすりながら、寒空の中、窓を拭くのだった。

「天ぷらとエコ」 2008.8.14


 世は原油高である。

 こんなご時勢でも私の愛車はオクタン価の高いガソリンを要求する。
 セルフで、いっそ軽油でも放り込んでやろうかと思う時もあるが
そんな事をすれば、軽自動車に軽油を突っ込んだおばさんやスィーツを笑えなくなる。
 ところで、


 ディーゼル車は「植物油」でも動くという事を皆さんご存知だろうか?


 先日、事務所で机の上をカタログだらけにしてガス配管の設計をしていた時に
他部署の知り合いのNさんが私の所に来て、頼んでた治具の設計を昨日から始めた事を教えてくれた。
 Nさんは機械屋で、量産設備関係ではよくお世話になっており、
機械以外でも守備範囲が広く、要素技術開発では二人で組んで仕事をした事もある。
 歳が近い事もあって、時々、情報交換したり、もちつもたれつを繰り返している。

 お礼などを述べていると、おもむろに

「最近、地球環境の事を考えてまして、植物油で車を走らせる事にしました。」
「はぁ?」

と、いう話になった。
 バイオエタノールとかなら分からないでも無いが
植物油は普通食用である。
 揚げ物なんかにも使うが、そもそも粘度も発火点もコストも高い。

「圧縮比が高いディーゼルなんで、発火点が多少違っても問題なく自然着火するし、ディーゼルだからそもそもノッキングがない。配管を回してラジエータの側を通し、一度暖めてからエンジンに送るので粘度は下がり、エンストや詰まりを回避できる。コストは廃油を貰って使ってるので『タダ』。」

との事。にわかには信じがたい話だ。


 先ず、ディーゼルエンジンとガソリンエンジンの違いを明らかにしたい。

 どちらも内燃機関だが使ってる燃料が決定的に違う。

 ガソリンは「揮発油」つまり、30℃以上でほっといたらどんどん気化する。
 −40℃でも火を近づければ燃焼する。
 でも、240℃くらいまで暖めても自発的には発火しない。

 一方、軽油は、あまり揮発しない。(沸点:180〜350℃)
 引火点も50℃と、暖めないと火がつかない。
 でも、210℃くらいで自発的に発火する。

 どちらも原油から精製されるが、値段はディーゼルのほうが安く、燃焼効率も良い。
 つまり、燃費がいい。(実用的な欧州の車で、33.3km/lというのが有る)

 じゃあ、何故今普通車でガソリンエンジンが主流なのかと言えば、
ディーゼルエンジンは一般的に

 ・小型エンジンで高圧縮比を得るのは非効率的
 ・エンジンでかい、のでスタータも出力デカイ
 ・音、振動でかい
 ・黒煙とか窒素酸化物が出やすい
 ・排気量で比較すると、出力低め

等の問題があることが挙げられる。
 排気量の大きい大型車では一般的。

 ガソリンエンジンでは、燃料と空気を混ぜてエンジンに送り込み、
スパークプラグで点火して燃焼する。
 その為、圧縮行程で断熱圧縮されて温度が上がった時に
自発的に着火してしまうと、プラグが点火しても燃焼せず
タイミングがずれてノッキングを起こす。
 低温でもエンストしないように引火点は低い方がいいけど
発火点は高くないといけない。

 逆に、ディーゼルエンジンでは、
空気だけを断熱圧縮して高温にしておき
そこに直接軽油を吹き込んで自発的に燃焼させる。
 発火タイミングは燃料を送り込んだ直後
スパークプラグは無い。
 従って、低い発火点が重要となる。

 で、ここが重要な所だが、
圧縮比が高いので、多少発火点が違っていようが
圧縮空気の温度が発火点を上回ってさえいれば
燃焼する事ができる。

 つまり、極端な話、発火点の問題さえクリアすれば、
液体燃料であればたとえば重油でも動くし、廃油でも動く。

 ましてや植物油(ピーナッツ油)は元々ディーゼルさんがこのエンジンを開発した時に
最初に使用していた燃料。
 その後、供給の不安定さから、鉱物油である軽油に移行したが、
今また、地球環境の観点から、植物油やバイオディーゼル燃料(BDF)が注目されている。

 栽培植物から抽出した燃料を燃焼しても
排出されたCO2は再び植物として固定しうる。
 京都議定書などで定めた二酸化炭素排出削減目標においても、
生物由来の燃料は排出量にカウントしなくても良い事になっている。

 話は反れるが、
麻宮&ヴォクソールの漫画「神星紀ヴァグランツ」では、
科学技術が退廃したジフフォラスという(町がある)平行世界において
ランキンがエラッカの実を78℃で精製しているが、
 これは、恐らくバイオエタノールを生産しているものと思われる。
発酵工程が描かれていないので、当初は植物油を抽出しているのかとも思えたが、
通常、植物油はそれ程低い温度では揮発しないので分留して得られるのは
恐らく、エタノールである。
 実に、現在行われているバイオマスエタノール燃料の製造を
20年以上前にリアルに描写している。
 しかも子細を一切説明せずに・・・さらっと、流石である。

 閑話休題。

 Nさんが行っているのは、SVO方式。
 SVOはStraight Vegitable Oilの略で、純植物油を直接燃料として使う方法である。
 もちろん、サラダオイルを買ってきて入れてもコスト高であるから
通常、使用するのは廃油。
 つまり、揚げ物等に使用された後の痛んだ植物油である。

 揚げかす等は、予め加熱してフィルター等(ストッキング使ったりも)を使って除去するらしいが
気温が下がって配管が詰まってしまうと故障の原因となるので
凝集物となりやすい、酸化の進んだ飽和脂肪酸等の油脂分(動物性の油脂)
は冷やして沈殿させる等して分離する場合も有る。
 フライドチキンなんかの廃油は要注意だろう。

 それだけで、SVOをいきなりエンジンに突っ込むのは危険だ。
 前述したように、SVOは室温では粘度が高いので、配管が詰まったり
また、発火点が高いので、冷えたオイルではエンジンが止まったりしてしまう。

 コレを回避するために、エンジンの始動は通常の軽油で行い、
エンジンが暖まったところで、その余熱を使ってSVOを70℃位まで加熱し
粘度が下がった所で、バルブを切り替えてSVOのみをエンジンに供給する。
 これにより、余熱されたSVOがシリンダ内に噴射されて
発火点まで楽に温度が上がるようになる訳である。

 空気が入らないようにするために、
Nさんは燃料の切り替えを三方ボールバルブを使って行っているらしいが、
エンジンを始動して暫くしてから、ボンネットを開けて
バルブを切り替え、エンジンを止める時も、ボンネット開けて
元の軽油に切り替えてからエンジンを止めるのだそうだ。
 SVOのままエンジンが冷えると、やはり始動しにくくなるからだ。

 また、SVO燃料の余熱はラジエータの横に配管を這わす事で行っているらしい。
 つまり、燃料の供給ラインは二系統になっており
助手席に置いた灯油のポリタンクから粘度の高い植物油を
補助ポンプで吸い上げ押し出しつつ、ラジエータで予熱して
三方バルブを通って通常の燃料供給ポンプへと導くようになっている。
 燃料フィルターを追加する場合も有る。
(多分)

 乗り心地は、
普通と全く変わらないそうだ。

 ・・・ただ、排ガスが「香ばしい」らしい。
 フライドポテトと同じ、おなかが減ってきそうな匂い。

 そりゃそうだろう、
Nさんは事情を説明して、会社の食堂からタダで廃油を貰ってる。
給食業者にとっても、処理費用を払わなくて済むからお互いにメリットがある。
 どこでもそうだろうが、食堂は揚げ物が多い。
毎日食べさせられているのに、車の中まであの匂いを嗅がされるとは
ちょっとむせる気もするが・・・・・・。

 まとめると、SVOで車を動かすには、
それ程大規模な改造は必要なく、燃料の廃油も簡単な処理のみで使用できる。
 自分で揃えれば、部品代だって、恐らく数万円程度のものだろう。
とは言え、ずぶの素人がいきなり改造出来るかと言うと
それは少し無理な気がする。
 機械屋さんの様に、有る程度自分で車が弄れて、
理屈が分かっていないと危険だ。

 配管、フィルターの目詰まり、
 ポンプの劣化、
 エンスト

など、普通の軽油よりも故障の可能性は高くなる。
 そういった時に適切にfix出来る能力も必要だろう。
 そもそも、車とSVOの相性の問題も有る様だ。

 別の観点から見ると、税金はどうなるのだろう?
という疑問がわく。

 我々は、あの馬鹿高い税金を
道路特定財源の為に給油時に支払わされている。

 燃料として廃油を使用した場合は
これら軽油取引税や揮発油税を支払うことなく、公道を走れてしまう。
 この事に問題は無いのだろうか?

 調べてみると、現在のところ、
SVOをそのまま使用していれば、税金の支払いは必要ない。
 しかし、軽油等とちょっとでも混ぜると、軽油取引税の対象となるらしい。

 他にも、改造後に申請の必要があったりする場合もあるそうで
詳しい事は私にもよく分からない。

 今度実際に、Nさんの車を見せて貰うので、詳しく聞いてみようと思う。

 しかし、流石は機械屋。
 工業製品も機械部品の塊に見えてるんだろうな。
 この天ぷらくさい車にボード乗っけて、
毎週サーフィンに行ってるって、
何かちょっと、・・・・・・良いね。

「ipodはアフォではない」 2008.7.6

 携帯に音楽を入れ、イヤホンで聞いているとある事に気が付いた。
 早速、こんな実験をした。

【目的】
 シャッフル機能は「リスト上の曲を一巡した後、二週目に取り掛かるとき一週目の最後の曲と重複しない様にケアしてあるか?」を確認する。

【実験方法】
 プレーヤの再生リストに、二曲だけ登録して、シャッフル&リピート機能を使用して再生する。
 スキップして重複するか、重複せず交互に曲が掛かるか調べる。
 プレーヤは以下の機器又はソフトを使用した。
・ipod shuffle(嫁のブツ)
・N903i(愛機)
・SD-Jukebox(PCプレーヤ)
・Windows Media Player(PCプレーヤ)

【結果】
@ipod shuffle→重複した
AN903i→重複した
BSD-Jukebox→重複しなかった!
CWindows Media Player→重複しなかった!

【考察】
 携帯用プレーヤでは一週目の最後の曲と二週目の最初の曲が重ならないようにチェックしていない。
 シャッフルのランダムアルゴリズム適用範囲が一週分の選曲リストにしか無いため、一周すると前の選曲順序の履歴をリフレッシュしていると思われる。
 一方、PC用プレーヤでは最後の曲を最初の一曲目と被らないように一週前の選曲順序を有る程度記憶している物と思われる。
 圧倒的にサンプリング数が少ないが、何故この様な違いが生じるのか考えると、単純に曲順を記録しておくメモリの確保の問題が思い浮かぶ。
 まあ、確かに1000曲あるいは10000曲の曲順を配列としてメモリにロードしておくのはそれなりにメモリを必要とするかもしれない。
 曲名とか、曲のデータは毎回メモリにロードして表示すれば良いが、シャッフル配列はいちいち不揮発メモリに記録してはいないだろう。
 とは言え、今時の携帯電話のメモリにとってその程度の配列はごみくずの如きものでは無いかと言う気もする。
 よしんば、メモリの問題があったとしてもだ、普通に考えて最後の一曲ぐらい覚えとけるだろうと言う事だ。
 よく分からない。
 せいぜい私に分かる事は、結果的に見てipodや携帯電話のプレーヤはアフォだと言う事だけだ。



・・・と言う訳で、ipodはあふぉだという結論に至ったのだが、後々調べてみると、これはどうも認識が間違っているらしい。

 なんと、ipodのシャッフル機能は本当は賢いらしいのだ!


 私の疑問とは少し違うのだが、同じようにシャッフル機能に疑問を持っている方々は、実は世の中に沢山居た(WEB上での話だが)。
 特に多い疑問と言うのはたとえば以下のようなモノである。

@「シャッフル機能を使ってipodに入れた10000曲(連続再生で40日)を越える音楽を聞いているのだが、一ヶ月経たない内に、何度も聴く曲が有る」

A「全2700曲中、ローリングストーンズは32曲しかないにも拘らず、245番目に初めて出てくるかもしれないが、次に248番目に再生されたかと思うと、また260番目に登場する。」

B「何時も同じアーティストが優先してセレクトされる気がする。何か法則があるだろうか?」


 @は恐らく、一度電源を切ったとか、何らかの理由で再生順序を記録した配列がリフレッシュされただけではないか?と推測される。

 AやBは、単純に擬似乱数生成アルゴリズムの問題だろうと言う気がする。多面的に、完全に均質な乱数を作るのは難しいのだ。統計学者が言う「部屋に無作為に選ばれた23人の人がいる場合、そのうち少なくとも2人が同じ誕生日である確率は50%を上回る」と同じだそうな。

 しかし、事はそう単純ではない。
 我々は、実はipodによって巧妙に選択された曲を聴かされていたのだ!

http://www.tv-tokyo.co.jp/wbs/2005/01/14/news_day/n1.html

 によると

「ただバラバラなのではない。ビートの速い曲の次に遅い曲。季節に合うタイトルの曲をあわせる」(竹林賢 部長/アップルコンピュータ)

 ホントかよという話。
 「スキップを多用すると、シャッフルの選曲から外れやすくなる」等も有るらしい。
 その一方で、The New York Times (2004/08/26) : When iPod is the DJ, watch outによると、Apple Computer's director of iPod product marketingの中の人は、「ロジックは明かせないが、基本的に1世代目の iPod からシャッフル機能のしくみは変わっておらず完全にランダムだ」としている。
 この辺の話は半分都市伝説化しているらしい。

 現在のiTuneでは「スマートプレイリスト」という機能で、再生する曲、しない曲について、各種の基準を設定できるようになっているそうで、好みのシャッフルパターンを構築する事が出来る様だが、実際使ってみると、やっぱりアフォだったとか、設定の仕方が悪いんじゃボケ、というような論争もあったらしい。

 結局のところ、ipodが本当にアフォなのか?真相は闇の中だが、私にとっては同じ曲を連続で二度流した時点でもうアフォ決定なので、この点だけでも改善されないだろうか?と、思っていたりする。

「そんな事、とっくに知っとるわい。」

 と言うような内容だったら、遺憾・・・。

「官製振り込め詐欺」 2008.2.16

 私の高校の同級生には税務署で働いている者が居る。
 なんか久しぶりに電話して文句を言ってやりたい気持ちになった。

 平日に住宅借入金特別控除の申請に行って来た。
 ローン残高の1%位が還付されるあれだ。
 今年初めての人用に説明会をやるというので、会社休んで参加した。
 開始の30分前からロビーには人だかりが出来ており

 「バスで来て良かった。車なら今頃駐車場には入れまい」

と、ほくそ笑んでいた。

 しばらくすると係員が現れ、準備が出来たので予定よりも15分早く開場するとの事。
 結婚式場の様な大きな会場に入ると、封筒を手渡され
 何列も並んだ長机に適当に座らされた。

 たまたま、最前列に座ることになったのだが、なんか変だ。
 目の前に、つい立がたちはだかっているではないか?
 これでは、説明を聞く事は到底不可能に思える。

 おろおろしていると、横のほうに立った係員が、おもむろにこう言った。

 「それでは、始めて下さい」

 ……私は会場を間違えたのか?
 ガサゴソ音を立てて、封筒から書類を取り出す受験生たち。
 去来するのは、数年前に受けた主事試験でのインバスケット演習。
 一発で受かったものの、もの凄いトラウマを残した、あの記憶が蘇る。

 問題文を読む。
 ぜんぜん意味が分からない。
 手を上げる。
 周りの人も皆、挙げている。

 係員の人数は全受験生に対してはあまりに絶望的だ。
 手を挙げつつ、問題文を読み返しているが、まず何をどうすれば良いのかわからない。
 運よく、係員にあり付いた人が聞いている。

 「あのー、何をどうすれば良いのか全く分からないんですけど・・・」

 ここにいる、ほとんどの人間が一丸となって同じ気持ちを抱いている。
 これは説明会ではなかったのか?

 例えば「家屋に関する取得対価の額」を書き込む欄がある。
 普通、マンションの売買契約書には、上物と土地の値段を分けて記載していない。
 分かるかそんなもん。

 係員に聞くとこういう事らしい。
 家屋には消費税が掛かるが、土地には消費税が掛からない。
 売買契約書には、必ず税金の記載があるから
 税金5%で割り戻すと、家屋の値段が分かる。
 売買価格から家屋の値段を引いた物が土地の値段となる。

 ・・・知るかそんな事。
 最初から書いとけ。

 それ以外の欄も各駅停車で意味不明である。
 記載例の記号すら意味不明で、これはいったい何のために有るのか最後まで分からなかった。

 ※出た後で分かったが、この記載例は確定申告書Aの記載例であり
 最終的に電子申告する事になるこの説明会では全く無意味な資料だった。
 これを入り口で配る意味が分からない。
 あるいは、計算明細書の記載例と入れ間違えたのかもしれない。

 ほとんど係員を占有し、明細書を仕上げ、その場でチェックして貰い
 PCの前に行き、別の係員に手取り足取り入力させられていく。
 この係員はバイトの兄ちゃんだ、要領は悪い。
 「・・・これ、最後のところ計算終わってないですね」
 「え・・・、チェックしてもらったんだけど」
 「ちょっと、待って下さい」
 バイトじゃない係員を連れてきて、明細書を見せる。
 「えーと、10年ですから、多分1%だと思うんですが、フォームが今年から変わっちゃってて・・・
 ちょっとこれ不親切で私も分かりませんね」

 お前らが作ったんちゃうんか?
 お前らが分からんのに、俺らが分かるか!

 ・・・何とか数字を打ち込み終わって、プリンターから何かが大量に打ち出されてくる。
 すると、紙が詰まる。

 「すいませーん」
 また、バイトではない係員が呼ばれ、詰まった紙をバイトと二人がかりで取り除く。
 そして最初から全頁、打ち出し直し。

 バイトがその書類を、ホッチキスで束ね、封筒にもホッチキス。

 ※ホッチキスって変な名前だ、英語でもJIS上でもステープラが正式名称なのに。発明者の名前らしい。

 最終提出口に持っていくと、丁寧にさっき閉じたホッチキスを外し封筒の中身を確認し、
 束ねた書類のホッチキスを外し、書類を何らかの順番で並べ替えながら、
 何重にもホッチキスを打ち直していく。

 山のように積みあがったホッチキスの残骸。
 この一連の作業は無意味だ、とあざ笑っているかのようだった。

 ・・・一応、これで終わりで三週間で還付金が振り込まれるらしい。
 ここまでに、凡そ二時間半。

 とにかく、無駄が多いというか、段取りが不十分で
 説明書きにしても何にしても、全部現場で帳尻を合わせさせている感じ。
 これならまだうちの会社のほうが数段マシだ、と実感した。

 去年同じように株関係の還付金の為に確定申告書の作成をHPを見ながらやった同期の勇者から面白い話を聞いた。

 彼は、わかりにくい説明を解読しながら何とか書類を仕上げて郵送したところ
 督促状が届いたらしい。

 「な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
 おれも何をされたのかわからなかった…
 頭がどうにかなりそうだった…(ry」

 もちろん彼は還付金を期待した訳だが
 届いたのは、足りない分払えという文面と振込み伝票だった。

 結局、あの▲マークを付け忘れていたのが原因だったようだが
 関連書類等、すべて提出している筈なのに
 あいつらは、何もチェックしていないのか?
 あるいは、あわよくばとでも思っているのだろうか?

 それ以来、彼は▲マークには気をつけるようになったそうだが
 そういう問題か?

 新手の振込みめ詐欺かと見まがう、素晴らしい仕事ぶりに軽い眩暈がした。

 「取り立てるのが俺らの本分だ。」

 と言わんばかりである。
 ひょっとして、還付金もくれてやるという気分なのではないだろうか?

 奴に聞いてみたい。

「エベレスト街道を行く」 2007.12.30

 28日は仕事が終ってから忘年会でたらふく飲んで、声が枯れるまで、アホな話をして・・・。
 29日は、二日酔いの頭を抱えつつ、未だ湿った岩場で「登り納め式」という年忘れクライミングで汗を流す。

 そして、本格的な正月休みが夕方から始まるという事で、先ずは、溜まったビデオでも消化しつつビールでも飲もうとつまみを用意してソファーで横になりテレビを点けたところ、NHKでエベレスト街道の特番をやっていてそのまま見入ってしまう。

 我が家で、42型レグザZ3500の能力がこれほどまでに遺憾なく発揮されたのは初めての事だ。

 某FPDメーカの偉い人がセミナーで、
 「HDTVは人間の認識力と想像力を革新する」
という様な事を言っており、いったい何を言ってるんだこのおっさんは?
と思って聞いていたが、初めてハイビジョンの映像が視聴者に強いインパクトを与えるのを実感した。

 エベレストのイエローバンドや、麓の村の生活感、人の肌の感じ
 これらが非常にリアルに感じられて、現場の雰囲気まで伝わって来るようだった。
 山小屋に泊まった事がある人だったらあのネパールの寺院や住居の印象がより身近に感じられたのではないだろうか。

 私はあの5000〜8000m級の山々の岩肌をモニターを通じて眺めているだけで、妙な緊張感と共に「蒼天の白き神の座」のオープニングを思い出してしまう。

 あとシェルパがかっこ良かった。
 元々ヒマラヤの少数民族の名称がそのままヒマラヤ登山のガイドの呼び名になったもので、いまやヒマラヤ登山には無くてはならない存在。
 高地に住んでいる為、気圧や低酸素濃度に良く順応しており、彼らによってコック、ポータも手配され、通訳も自らこなす。

 ヒラリーステップの、エドモンド・ヒラリーさんが、1955年にエベレスト初登頂した時のパートナーも テンジン・ノルゲイというシェルパだった。
 野口健も、エベレスト登頂成功後の下山時に20m滑落し、飛びついたシェルパによって滑落停止したおけげで命が助かった。

 番組に同行したシェルパは、家族を養う為に給料の良い「シェルパ」になったという。
 ポータやコックでは家族を養えないらしい。
 山間部での生活の実情が感じられる。
 また、エベレスト登頂に14回挑戦して4回成功って言うのも凄い。
 地元だから、チャンスは多いだろうけど、彼らは本当の意味でプロのヒマラヤガイドであり、趣味の「登山家」ではない。
 当たり前だが、生活が掛かっているので、自分の事だけでなく、クライアントを頂上まで導くという使命がある。
 それでなくても、サウルコルより上は死屍累々である。
 ルート上に死体が放置されていて居る事も珍しくない。
 悪天候でパーティが全滅する事だってある。
 だから限られた人間だけが、シェルパとして認められれ、その仕事に生死を掛けて従事している。(シェルパへの道は狭き門)
 しかし、その素顔は実に素朴な45歳なのである。
 ひょっとしてリアル三歩(石塚真一「岳」)なのではないだろうか?

 番組では、山中の広い平原に無数のケルンが積んで有る場所が出てくるが、それらは全て、事故で無くなったシェルパのお墓なのだそうだ。

 そのほか、地球温暖化に伴う氷河湖の拡大の話も出てきた。
 氷河湖の拡大は決壊時に、周辺の村やインフラの損壊に繋がる。
 現に、川に飲まれて流された橋の映像も見られた。
 氷河湖をせき止める堰は自然に出来た物で、いつ決壊してもおかしくないらしい。
 正直、彼らにも、文明社会の住人である我々にも、それを止めるて立ては無い。
 自然を前に人間は本当に無力なのだと感じる。
 しかし、その温暖化の引き金を引いているのが普段の我々の生活なのだとしたら、その人間の力と英知を集めて、積極的な対策が何故行えないのだろうか?という気もしてくる。

 未だ、温暖化が自然由来のものと勘違いしている人も多いが、20世紀以降の急激な温暖化は「人為的温室効果ガス排出が原因である確率は90%を超える」とされており、サイクル的には緩やかな地球寒冷化に入っているはずである。
 (※私の子供の頃の「学研の科学」には、「地球が氷河期に入る」と言うような記事があったのを覚えている、温暖化なんか聞いた事無かった)
 試算によれば、温室効果ガスの排出量を大幅に削減することは経済的に可能であり、人類は有効な緩和策を有している事になっている。
 にも拘わらず、現在も温室効果ガスの排出量は増え続けている。
 仮に緩和策が上手く行ったからといって、すぐさま温暖化を抑制する事は実は出来ないが、ここ数十年での早期の緩和策実行によりCO2の安定時の濃度を如何に低く抑えるかが、全地球的に損害を最小に抑える鍵となっている。
 その為には、政策的な方針転換が重要となるが、それを支えるのも結局は国民への啓蒙活動では無かろうか?

 手の届く個人レベルでの環境対策もあるが、世論的な支持が正しい認識の下に得られる事が重要だ。
 実際に、目にする環境活動は温暖化への効果が見え難いものも多い気がする。
 間違った認識や誤解で、目的が良く分からない運動も有る様に思う。

 実際に起こっている事と、温暖化の因果関係を正しく説明できる事が、先進国にも後進国にとっても、環境問題を解決するマイルストーンだと思う。
 それが無ければ国家の足並みも揃わないし、効果も出にくい。

 京都議定書で世界に環境問題へのリーダ的取り組みを印象付けた日本が、2007年の気候変動枠組条約締約国会議では先進国で唯一、京都議定書を批准しない米国に対し、理解を示すなど、批判も見られた。
 自国で改善すべき事は為し、他国であっても働きかけるべき所はキチンと言う。
 各国の目標達成が難しい中でも、着実に歩みを進めなくてはならない。
 頂上は向こうから近づいては来ないが、こちらが歩めば相対的な距離は縮む筈である。
 ところが、米国はパーティの足を引っ張るどころか、何もしなくても、その頂上をじりじりと遠ざけていると捉える事も出来る。

 各国の事情が複雑な事は誰でも想像できる。
 そんな時でも「シェルパ」として世界を持続可能な頂へと導く国が、在っても良いのであって、京都議定書までの日本は様々な技術水準においてもその役割に一番近かったのではなかろうか?と言う気もする。

・・・と言うわけで、そろそろ溜まったビデオを見るのを辞めて、電気消して寝るか。

「そしてこのタイトルはビリー・ジョエルに繋がる」 2007.9.29

 金曜の仕事が終わった後、急に「週末は久しぶりに映画を見たい」と思い、今日、映画館に行ってみると「Perfect Stranger」が封切だった。
 あんまり前評判を聞いてなかったし、話の内容を全く知らないで入ったので、つまらなくて眠ってしまわないか心配だったが、意外にも結構面白かった。

 結末より、何より驚いたのは、マイルズ役のジョバンジ・リビニ。
 TVドラマ・フレンズのフィービーの弟、フランクJrの中の人。
 最初は「まともな役、出来んじゃん」と思ったのに、やっぱり最後は変態じゃないか。
 なんか、フレンズの頃より年は食ったけど、あの目つきといい、やばそうな感じは大人になっても健在だ。
 ただ、大写しになるたび笑ってしまうのはフレンズのトラウマの所為だろう。

 ブルースウィリスも「禿を受け入れろ」とか言われながらも、そこそこ最近の映画には出てる。
 相変わらずの演技だが、今回の役、企業の社長役はこれまでとチョット違う路線だったにもかかわらず、わりと合ってたのは、演技の幅が少し広がったって事かもしれない。
 
 主役の綺麗な黒人の女の子は、ハル・ベリー。
 スクープを狙う記者の役。
 この人、どっかでみた事有ると思ったら、X−MENの人だ。
 なかなか、上手い演技で観客を魅了してた。
 正直この人が主役じゃなかったら、この映画こけてたかも知れない。
 シナリオだけでは、観客は騙せない。観客少なかったけど・・・

 この映画のコピーは「ラスト7分11秒の真実」な訳だが、正直、それ自体は衝撃と言う程のものでもない。なぁ、ヤス?
 確かに私は読めなかったが、驚くよりも、頭の配線を繋ぎ直すのに忙しくて、上映中はじっくり理解が進まなかった、年かも知れん。
 映画館出てから完全に理解した。
 成る程、なかなかやるなと言った感じ。
 そして、最後のシーンは「リドルストーリ」っぽくなっていて良かった。
 悪い事した奴は、永遠に苦しむのだ。

 この映画のタイトルの意味は、普段と違うもう一つの「顔」を最後まで暴かれる事無く終われるのは誰だ、と言った意味があるそうな。
 もう一つの顔が現れる部分として、この映画ではインターネットの匿名性を引き合いに出してきている。

 まあ、チョット状況は違うが、匿名掲示板などでは、ネカマやネナベ、ネット番長がはびこっている事を考えれば、確かに以前はclosedだったもう一つの人間性は、有る意味ネットの匿名性によって解放されてきたといえるかもしれない。
 これが、客観的、社会的にみてプラスになっているのか、それともマイナスになっているのかは、実はあまり意味の無い事だろう。
 人の二面性を否定する事も、ネットの二面性を否定する事も同じなのだから。
 まあ、普段真面目なサラリーマンが、ネットでは本気で悪い事やってる様な確信犯は、結局、根っからの犯罪者な訳で、捕まって当然で良いんじゃない?別に騒ぐ事も無い。
 大多数の奴は、悪い事やってると思ってなくてとか、皆やってるから大丈夫だと思ってたとかな訳で、捕まる奴は交通違反みたな罰則で相応しいんじゃない。
 でも、捕まらない殆どの人は、ネットであろうと悪い事は悪いと認識してる訳で、どこのHPであろうとも、匿名などといっても、実際にはIPを抜かれているので、現実よりも確実に足が付きやすいと言う事をわかっているのだろうと思われる。
 寧ろ足跡を追われると言う意味では、現実より余程プライバシーが守られていない世界だ。
 だから、そういう世界と現実の世界を二面性を持って生きていくという事は、有る程度気分転換になるし、その反面でストレスにもなりうる。

 脱線したが、このタイトルが実は、ビリー・ジョエルの「Stranger」の歌詞と同じだった、・・・って、それだけの話でした。


 ・・・ビリーズ・ブートキャンプじゃ無いよ。

「消え行くものの彼岸」 2007.3.21

 久しぶりに、郊外に在る中華料理店に行ったら、潰れて肉屋に変わっていた。
 何たる無念。本当に美味しい所だったのに。
 そこは、中華料理を出す飲み屋という感じの小さな店で、値段は高いが店の雰囲気も店員の対応も非常に良かったので、自分的には隠れた穴場としてとても気に入ってた。
 やはり駅から遠い所がネックだったのだろう。
 近頃の飲酒運転取締りの強化からか、郊外の飲酒店が次々に潰れていってる中、もしやと思っていたが、幾ら実力が有って美味しい料理の出せる店であっても、客単価の上がる酒が目当てのお店では、立地条件が経営上、益々重要となってきてる様だ。
 飲み屋では無いが、将来、自分の店を持とうと考えている自分にとっても、立地条件については悩みどころ。
 二等地で5000人以上の人通りの有る所って結構駅に近くないとダメだし、必ずコンペチタが居るのが普通だからだ。

 先日、定年過ぎても働いてらっしゃる年配の方と、親しくお話しする機会が有り、どうして隠居しないのか伺って見ると、実は役員だったそうで、成るほど。
 ところが本人は辞めたいらしいのだが、なかなか辞めさせて貰えないらしく、その理由と言うのがこれまた面白い。
 その方は、従業員15人程度の小さな○○事務所を共同で出資してやってきたが、いわゆる役所の下請けが結構な割合を占めており、その入札指名を受ける為には、足繁く広範囲に複数の事務所に通い、名前を覚えてもらい、顔馴染みになっていないと舞台に上がる事すら叶わないのだ。
 入札には、一般競争入札と、指名競争入札があるが、指名競争入札は、一定の資格を有する者のうちから指名基準(予め発注者が仕様を確信できるor納入実績が有る)により相手方を複数選定して競争させるやり方だ。
 そういう意味では、古株になる程その信頼は厚い訳で、人が変わってしまうと指名が得られにくくなる事も珍しくない。
 しかし例え入札に参加できても、最近の事情は厳しいらしい。
 以前は、談合やゼネコン(の様な物)があり、無数に有る○○業者に(切り分けなどをして)満遍なく仕事を振り分けていたが、今はそういうものが無くなってしまい、大手に落札され易くなっており、中小の業者に仕事が降りにくくなっているそうだ。
 結果、その分野の中小の半分以上は潰れるだろうと仰っていた。
 対抗する為には、合併等を繰り返して行くしか方法は無く、小回りの利き難い体制化によって、現場にしわ寄せが来たり、トラブルが起き易くなるかもしれないとも仰っていた。

 本題からずれるが、最近は殆ど無くなったが、以前は役所担当者への「お礼」と言うのも多かったらしい。
 現在でも、ちょくちょく有るのは議員さんによる紹介・仲介料で、結構露骨に「領収書の出ない形でお願いします」と言われるそうだ。
 中には、頼んでも居ないのに、勝手に仲介してくる議員先生も居るらしく、まさに押し売り業者の様。
 閑話休題。

 ・・・現実として、飲酒運転取締り、談合取締りの強化についての必要性は自明な事だ。
 その事自体には何の異論も無い。
 「世の中の変化に対応する」事は、客観的に言えても、主観的には難しい。
 パラダイムの変化は、多くのものを捨てる事を要求する。
 より新しく生まれ変わる為だ。
 しかし、新しい物が必ずしも望んだものに成るとは限らない。
 捨てた後に価値に気付いても、もう取り戻す事は出来ない物もある。
 結局、自分は変わらないと決める事にも、変わるんだと決心する事にも覚悟が必要だと言う事を改めて認識する。
 その先に有るビジョンを出来るだけ正確な形で描く事、良いことも悪いことも含めて、それが「変化に対応」した事になる。
 問題は、それを容易に共有化できない所か。
 それこそ「構造改革」なんて、国家規模でビジョンを共有化する訳だから、「こんな事になるなんて知らなかった」とか「そんな事も知らなかったのか」という、水掛け論が出るのは当たり前かもねと、目を細めたりもする。
 出来るだけ正確に展望を推測しようとするなら、外国の情勢や、他業種の変化を参考にするのが良い。
 しかしそれだけでは、望む未来を掴む事は難しいだろう。

 私にも身近に変えたいと思う体制が有る、それは私にとっては非常に大きなパラダイムだ。
 しかし、臆する事無く自分のビジョンを皆に伝えて行きたいと思う。
 無理せず、出来るだけ正確に、出来るだけ夢のある形で。
 そんなロマンが、仕事には絶対必要だと思う。

 ・・・という妄想を抱いた、年度末のある祝日だった。

「それでも僕わ観に行かない」 2007.2.4

 周防正行監督の映画が国内外で話題になっている。
 その要因の一つに、欧米諸国で痴漢行為が珍しいという事があるそうだ。
 正確にはわからないが、例えば日本語の「痴漢行為」に相当する英語と言うものは無い。
 'pervert'と言うのが近いが、どちらかと言えば「異常者」とか「変質者」に該当し、広い意味では含まれるかもしれないが、日本人が想像する痴漢とはニュアンスが違う。
 
 フェチズムなんかで、女性の靴を集めるとかは結構あるのだろうが、外国の電車内で、体を触ったりするような痴漢行為が珍しいという事だが、これは決して欧米人が紳士であるという事ではない。

 一つには、体を密着させるまでの満員電車が日常的に常態化していない(全く無いと云う意味では無いが日本ほど酷くならない)という事もあるが、それ以上にレイプが多いという事。
 日本人はレイプ犯罪が欧米に比べて少ないが、その分痴漢が多いという事らしい。
 
 その原因が抑圧された過剰な社会的ストレスの所為だとか、レイプするほどの度胸がないだとか、色々言われているけど、本当の所どうなんだろうか?

 調べて見ると、「痴漢」と云う行為は日本独自の文化ではない。
 アラブなどイスラム諸国でも痴漢行為が多いという事は良く耳にする。
 東南アジアでも痴漢行為はあるらしい。
 私の母も、シンガポールの服飾店で不必要に体を触られた(若い頃の話ね)事があると言っていた。
 多くのイスラム諸国では、宗教的な理由から男女のコミュニケーションが抑制され、女性が男性と結婚前に付き合うこと自体が珍しい状況に有る。
 女性の服装にも、肌を見せない等厳しい制限が有る。
 確かにこのような状況では、些細な事で男性が過剰に性的興奮を引き起こすような社会的ストレスが存在するかもしれないし、ストレス説はもっともらしく聞こえる。
 そもそも、文化的にはこの辺は日本と似た社会的価値観(自爆テロとかはまた別次元の話)を持っているのだから、日本単独の性癖になる訳は無いという事かもしれない。
 欧米諸国には、以前からセクシャルハラスメントが存在するが、これとてストレスが影響していると見る事が出来る(場合も有る)。ただ、体を触る行為自体は同じでも、セクハラと痴漢はその適用範囲やニュアンスが異なる様に見える。
 やはり決定的に違うのは環境ではないだろうか?

 首都圏を中心に大都市での朝夕の満員電車は世界的に見ても異常な環境だろう。
 そんな事でもなければ、ディスコやダンス会場以外の公衆の面前で見知らぬ男女が不可抗力的に肌が触れ合う程密着する機会は無いのだ。
 日本を痴漢天国たらしめているのは、抑圧された精神的ストレスと、この社会的に構造化された環境が大きく影響していると考えられる。
 じゃあ「僕が痴漢したのは、社会的なストレスと環境の所為なんです」って言うのが、言い訳として通用するのかと言うとそうではない。
 そもそもこれらは、F.Herzbergが言うところの「環境要因(衛生要因)」の様なものであり、動機が無ければ痴漢行為は起きない。

 Herzgergは人間の満足感を決定する要因を「達成・承認・責任・昇進・仕事そのもの」の五つとし、これを「動機付け要因」とした。
 これに対し、不満足感をもたらす要因として「監督の質・給与・会社の方針と管理・人間関係・労働条件」の五つとし、これを「衛生要因」とした。
 そしてこれら二つの要因の関係を、家屋と基礎(土台)の関係に例えた。
 基礎がしっかりしている所に動機付けが働くと、仕事が完遂され高い満足感が得られる。
 逆に、基礎がしっかりしていないのに、動機付けが働いても、仕事は完遂されず満足は得られない。つまりストレスが蓄積される。

 痴漢行為ではこれらは全て逆方向(悪い方向)に働く。(笑)
 衛生要因、つまり満員電車、甘い取締り、刑罰の軽さ、普段からの精神的ストレス(不満)、露出、社会的抑圧etc.これらが高められる事によって、衛生要因は充実していく。
 そこに持ってきて「性的興奮を得たい、スリルを得たい、自由にしたい」という動機付け要因が働くと、痴漢行為は完遂され、高い満足が得られる。
 この動機の強さと被害が、量刑において問題となる。
 環境は情状酌量の余地は有るかもしれないが、痴漢行為の場合は殆ど考慮されていない。
 
 一般的には、迷惑防止条例違反という事で、東京都であれば6ヶ月以下の懲役又は50万円以下の罰金となる。非常に悪質なケースでは、刑法176条強制猥褻罪が適用されることもあり、6ヶ月以上7年以下の懲役となる。
 大抵は示談金により被害者が訴えを取り消す事によって、民事・刑事とも穏便に済まされるケースが多い様だが、示談金には多額の補償が必要となる。
 また冤罪によってカモにされているケースも実際にあるという事で、痴漢の裁判には物議が多いのも頷ける。
 また、このような犯罪自体を防止するために、元痴漢犯罪常習者に被害対策のアドバイスをもらうという奇抜なアイデアも有る様だ。
 
 そういった事情をどういう風に映画にしているか興味深いが、周防さんの映画は面白いけど映画館に見に行くよりも、家でリラックスして見ている方が私には合っている様なので、多分見に行かないだろう。

「スパム対策」 2007.1.6

 新年明けた。
 すると何故か良くは分からないが、スパムの量が急に増えた。
 
 ?
 
 理由は分からないが、一時はそれまでの三倍位まで増えていた。
 現在は、徐々に沈静化しつつある。
 恐らくは、年賀状配布サイトを使ったスパムだろうと思われるが、流石にこれはフィルターソフトが弾いてはくれなかったようだ。
 
 メールは便利だけれども、スパム(語源は、あの塩辛いコンビーフみたいな缶詰「SPAM」らしい!)の多さにウンザリしている諸兄方も多いだろうと思う。
 どんな対策が有効か?
 メールアドレスを公開しない事。
 でも、今から消して回っても後の祭り。
 だからといって、日々メールボックスを埋め尽くしているスパムを指を加えてみていると言うのも歯がゆい気がする。
 
 一体、日本の法律はどうなっているのだろうか?

 経済産業省では、「特定商取引法」で、
 総務省は、「特定電子メールの送信の適正化等に関する法律」で、
 それぞれ、「迷惑メール」に対する取り組みを行っている。
 これらは少しずつ性格が異なる。
 
 「特定商取引法」は規制対象が、「商品販売やサービス提供の広告をする事業者」となっている。
 つまり、経営者に対して営業の停止等を命令できる法律で、規制内容は、「未承諾広告※」や「事業者情報」を記載していない広告メールを送付したり、広告メールの受取りを拒否した人への再送信を禁止している。
 実際に、一ヶ月の業務停止命令を受けた出会い系サイトの概要を見て見ると、結構凄い。
 従業員2名、アルバイト27名、年間売り上げ9,420万円。
 これを、どう見るかは人それぞれだと思うが、原価が原価だけに凄い利益率である事は間違いない。
 それ以前に、こんなに金が集まる事自体が全く持って不思議でならないが、何を違反したのかと言うと、メールの件名に「※未承諾広告」と、※印を逆に置いたり、「お返事有り難う御座います」等といきなり送りつけていたのが引っかかったらしい、他にも上に書いた禁止事項を満遍なく違反していたようだが、特に気になったのは、『入会案内画面に第三者認証機関が管理しているセキュアシールを無許可で使用し、「当サイトは、米国サーバー認証を受けておりますので、個人情報等第三者へ渡ることは絶対にございません。」と虚偽の表示』をしていた事。
 耐震偽装でもそうだけど、世の中何を信じたら良いのかは非常に難しい禅問答の様になってきてる。
 ま、この場合誰も同情してはくれないだろうけど・・・。
 しかし、こんな業務停止を食らった所で、どれくらいの効果があるかは怪しい物。
 一ヵ月後にはまた別のやり方で同じ業務に戻るんだろうし、メールボックスを見る限り、同じ事やってて摘発されていない業者は山の様に居るようだし・・・。
 
 一方「特定電子メールの送信の適正化等に関する法律」(特定電子メール法)では、規制対象が「メール送信者」になっており、上に書いたのと同じような規制内容(と、スクリプトで作った架空の電子メールアドレスへの送信)を違反した場合に、大臣による措置命令を出す事が出来、それでも命令に従わなかった場合、50万円以下の罰金を課す事が出来るというもの。
 送信者と事業主が同じだったりする場合、上記の利益から考えて50万円なんて安すぎるという気もするが、これとは別に電気通信事業者つまりプロバイダに対しても規定があり、スパムに対抗する技術開発・情報提供に努めなくてはならない事と、スパムメールを送りつけている利用者に対し送信サービスを拒否できる事などを盛り込んでいる。
 しかし、まああくまで勧告→命令→罰金という手順を踏む事で即効性が損なわれているとも感じられる。

 いたちごっこである事は否めないが、このような規制が継続的な改定を行っていく事である程度の抑止力は期待できるだろう。
 
 ただ問題は今、こうして送られてきているスパムをどうするかである。
 最近のスパムの傾向を調べて見るとなるほどと思うものがある。
 例えば、基本的に見ないで捨てていれば安全と言うのはほぼ正しい。
 ウイルスメールにしても大抵は添付ファイルで送られてくる物が多いし、文面くらい大丈夫だろうと、件名では判断しにくい物を開いて見たり、プレビューでいきなり文面が見えちゃう場合も有るかと思う。
 しかし、HTMLタイプのメールを開いてしまうと、その中に埋め込んである目に見えない位の小さな画像へのリンクが、受信者の情報(例えばクッキーやリモートホスト)を送ってしまう場合も有る。
 もちろんHTML表示しないに越した事は無いのだが、WEBメールをブラウザで見る場合もあるだろう。
 他にも何やってるか良く分からないスパムもあるらしく、基本的に開く事無く自動でゴミ箱直行が最も安全かと思われる。

 そこで「フィルタ」の登場な訳ですが、「知らない人のメールは全て拒否」と言うのが最も安全性が高いのは分かっていても、多くの場合それでは都合の悪い事が多い。
 テキストの語句で分類してくれたり、スパム設定したメールの傾向から学習して、スパム判定を進化させていくフィルタソフトも有る様だが、結局は複合的にフィルタ方式を組み合わせるのが良いらしい。
 こういったフィルタソフトは、フリーでも結構あるし、既存のメールソフトと共存できる物も多い。
 もちろん100%では無い事はいう間でもない。
 
 かく云う私はどうしているのかと言うと、「ウイルスバスター2007」を使っている。
 それまでも色々フィルタを試したり、特定のメールアドレス以外ゴミ箱設定にしてきたのだが、去年2007にアップデートして、Outlookに迷惑メール対策ツールを取り付けてからというもの、それまで一日二百件を超えるスパムメールが、平均三通位にまで減った。
 今の所、必要なメールをとりこぼしている事も無いようだ。
 これは多分、サーバに蓄積されるスパム情報が功を奏しているように思う。
 ユーザ一人一人が一々スパム設定していても、毎日設定を変えてくる業者群に対しては無力だ。
 しかし、このツールを使用する個々のユーザのチカラを集結したら、これ程までに力強くなるのかと感激してしまった。
 万人にスパムを送るという事は、万人を敵に回した事と同じなのだ。
 まさに、「この人と云う字は・・・」という金八先生の言葉が身に染みる思い。
 このツールは、取りこぼしたスパムに対して、個人的に禁止するアドレスに設定する事も出来るし、迷惑メールとしてサーバに報告する事も出来るので、アカウントやハンドルネームが付いているスパムを誤って公表する事も避ける事が出来る。
 
 別にウイルスバスターに何の思い入れがある訳ではないが、実質的な問題として私は今スパムメールからほぼ解放された。
 もし貴方が、今スパムに悩んでいるなら、取り敢えずお勧めしておく。
 (他のソフトでも同じような機能はあるかもしれないが)
 
 最近はメールだけで無く、掲示板への業者書き込みも大きな問題になっている。
 これについては恐らく法令等の整備が遅れているのだろうと思われるが、特に掲示板となると弊害も非常に大きく、大きな枠組みを決めてしまうよりも、各掲示板サービス会社の自治運営に委ねている部分が大きい様に思われる。
 しかし、これについても上手く行っているサービス会社もあれば上手く行ってないサービス会社もあるので、選定には注意が必要だろう。
 特に個人で掲示板のスクリプトを組んでいる所は大抵目も当てられない状態だが、大手は結構しっかり業者締め出しに成功しているので、大きく明暗を分けた。
 私が借りているロケットBBSは、去年4月の業者対策直後、一時的混乱に陥ったが、その後改善され、以後の業者書き込みはほぼゼロ、凄い!
 まー、業者書き込みはサービス会社にとっても死活問題(定期的に書き込まれると不要な掲示板を消去できない)なので、当たり前といえば当たり前なのだが、本気出せばなんでも出来るんだなって云う気もする。

   このスパムや業者書き込みに関して言えば、殆どは迷惑なだけでそれ以外大した不都合は無いのだが、迷惑な事が副次的に大きな問題を起こす場合も有る(特に仕事に関わる事では)、公的であれ自衛であれ手段を講じる事は最早不可欠といえるが、それによって自由な情報交換やめぐり合いの機会が失われるならそれは悲しい現実だ。
 業者は自分達の事しか考えていないし、それによって自分達の食い扶持が失われようとも、他の業者に食われる位なら俺が食ってやる位にしか思っていないだろう。
 しかし、共存社会の形成は、戦略的進化に従って自然淘汰的に行われる。
 この業者がどのように変化して社会で共存する様になるのか、本気で生き残りを考えた者だけが限られた社会の居場所を見つけて、サバイバルを生き抜く事が出来る。
 そう考えると、業者の世界もなかなかに大変そうだ。私達よりもね。

「非ヴィジュアル系言語に明日はある?!」 2006.12.9

 この数日、FORTRANを弄っている。
 私は全く存在を知らなかったが、現在は「Visual Fortran」と言うのがあるらしいが、そんな良いものでは無く、FORTRAN95でもなく、FORTRAN77だ。実に15年(以上)ぶりの再会。

 「♪いつか〜、時の流れに、押し流されて、海に沈んだ〜、可哀想な」FORTRANと普通の方は思うかもしれない。
 これでFORTRANは科学技術関係では、未だ非常に強いのだ。
 ベクトル型スパコン関係のシミュレーションコードは大抵FORTRANだし、機器の制御に使用する場合も多い。
 元々FORTRANはIBMの計算機用に開発された、世界最古の高級言語である。
 'FORmula TRANslation'を略してFORTRAN、ソースをコンパイラで実行型に変換して使う。
 教育用ではインタプリタで動作する物も結構有る。
 私が大学で最初に習った言語がFORTRAN77で、端末からHOSTにアクセスしてインタプリタで動作させていた。

 大学で教育用やシミュレーション用によく用いられる理由は恐らく、数学に使用する関数が豊富で有る事、固定記述方式なので、古来使われていたカード入力に対応しやすく、人間がやるとめんどくさいけど、C言語等の低級言語でやらせるには複雑な計算、特に行列・テンソル・有限要素の計算を簡単に解ける最古の言語だったせいで普及したのではないかと思う。
 内部で数式をベクトル化して計算している事もスパコン向きと言える。

 私自身、小学生の頃より同じ高級言語であるN88-BASIC(と若干のアセンブラ)に慣れ親しんでいたので、初めてでもFORTRANは簡単に理解できたが、固定記述には違和感を感じたし、スクリーン制御命令の貧弱さは、私に何の興味も与えなかった。
 しかし考えて見れば、メモリの少なかった当時のPCで、長大なリストをちまちま変更していく作業に、分割コンパイル可能で部分修正が簡単なFORTRANは、どれだけ重宝がられた事か想像に難くない。
 
 閑話休題、それで今、FORTRANで何やってるのかと言えば、1989年頃に誰かが書いた化学平衡計算のソースを修正して、DOSプロンプトで動くようにしている。
 もともと、PC-98向けに書かれていたもので、ドライブの設定がフロッピー二台を基準に設計されていたり、カラーコードも多い為、修正は結構煩雑である。
 また、バグも多く、使い勝手も非常に悪いくせに、今は使えないプリンター出力にも対応していたりするので無駄も多い。
 取り敢えずまともに動くようになったが、頑張った割に計算が正しいかは正直「?」
 引用文献の適用外の温度領域では、外挿してくれたりもするのだが、結構発散して解が得られなかったりする。
 ちゃんと確認して無いから、外挿のアルゴが悪いのか、単に数学的な問題なのかわからないのも困った物。
 こういう時、GUIが無い非ビジュアル系言語は厄介だなと思ってしまう。
 そんな訳で、VBあたりに移植しようと考えているのだが、連立方程式を解いている部分は結構大きいサイズであるのと、スパゲティがネックで解読する気力が・・・。

 FORTARANはC言語よりも古いせいもあるが、基本的に構造化に対応していない(FORTRAN95当たりになると幾つか構造化対応コマンドも増えた)。
 つまり、ネストとかイタレーションの概念が薄く、アドベンチャーゲームブックの様に、9ページに行けとか、152ページに行けとか、24ページに行けとか、何かをやったら元に戻るという事が無い。おまけに、途中で主人公が死んだとか、マルチエンディングだったりするプログラム構造なので、ソースが非常に読みにくい。
 GOTO文を有害と論じた有名な「ダイクストラの主張」を、闇雲に賛同してしまいそうな気分だ。
 こういう、行ったきり雀のプログラミングを一般にスパゲッティと呼ぶが、これは保護回路に保護回路を取付ける「スパゲッティ症候群」と意味は異なるが、有害性では同等であると言える。
 古いBASICが嫌われたのも同じような理由だが、今の一般的な新しい言語はどれも構造化されていて大差ないように見える。
 
 一方、構造化言語と言えばC言語。
 こちらは、UNIXが普及した時代に爆発的にメジャーになり、互換性の高さから、それ以降の大学教育でも授業で教えられる事が多くなった。(余談だが、3DCGを描画するPOVRAYのスクリプトはCの記述方法に沿っている。Cそのものと言っても良い位だ)
 昔、大学でプログラミングの授業と言えば、FORTRANかPASCALだったものが、最近の新入社員は大抵Cの授業を受けていると聞いて驚いた。

 実は私、「C言語」の語源はB言語の改良版で、D言語はCとC++(とJAVA)の改良版という意味だと思っていたが、実際はちょっと違うのだそうだ。
 元々はBCPL(Basic Combined Programming Language)という言語が有り、それを元に作られたのがB言語で、語源はBCPLの頭文字を取ったらしい。そのBから進化した(退化?簡素化?)のがC言語と言うのは正しいが、その語源はBCPLの二番目の文字を取ったとか・・・ほんまかいな。それが本当なら、DはP言語と呼ぶべきらしいのだが・・・。

 Cは何でも出来るが、有る程度ライブラリを持っていないと、とんでもなく原始的なところから自分で組むハメになるので、私は部分的なコプロセッサーに使ったり、単純で膨大な作業を高速で行う簡単なプログラムしか組んだことが無い。
 Cのプログラムは多くの関数で出来ており、プログラム自体がmain関数という一つの関数として呼び出せる。
 大抵のコマンドも実体は、関数になっており、代入する事で発動し、何らかの値を返す事になっている。
 そのコマンドを使って作ったプログラムも関数となっており、更にそれがコマンドとして、上位の構造で関数として利用されるという、構造化された体系を持つのが特徴である。
 飛びやすいのがネックだが、速いし、コンパクト。
 私はたまにしか使わないので、ポインタやスタックが厄介に思える事が多いが(二元的に考えないといけないので)、ポインタをあまり気にしないで組む事も出来るし、慣れた人は痒い所に手が届くのでそこが良いらしい。
 厄介なのは文字列処理で、この点はライブラリを使って補わないときついといつも思っている。

 同じ構造化プログラムでもLISP(Common Lisp)はソースを読みずらい。
 その")"はどの"("と対よ?って言うのが、いつもエラーの原因となる位、延々と(…(((…))(…)))な感じの文法が続く。
 歴史的には、FORTRANに続く、二番目に古い高級言語であり、初期の頃はFORTRANで作られたインタープリタ上で動いていた、最古の関数型オブジェクト指向言語である。
 シミュレーションのマクロ記述に、LISPの方言の一つ"Scheme"を使っていたが、初めて使った時は本当に手も足も出なかった。
 まず、普通に足し算や掛け算、代入が出来なかった。
 「これはダメかもしれんね」と、正直、自己嫌悪に陥った。
 もっと混乱したのはcar(カー)とcdr(クダラー)。
 これも、「どこまでがcarなんだよ!」って言うのがいつも付きまとった。
 LISPの語源は"LISt Processing"という事で、基本概念がリストの処理に置かれている。このため全ての記述(命令)が式として評価され、何か(リスト)を出力する事になっているのだ。
 しかし、使っている内に段々その言語の設計概念みたいな物が頭の中に入ってくる様になると、特定の用途には、非常に理路整然とこれまでの考え方と全く違う構造でプログラムが組み立てられる事に気付いて、頭をがーんと叩かれる様な衝撃を受けた。
 この事は、英語を英語の思考で考えられるようになると、自由に英語が喋れるようになる事とよく似ている。
 LISPが人工知能系言語に使用される所以だ。
 ただ、単純に代入式の順番を替えるだけで、こんなにも読めなくなるのか、という事には正直カルチャーショックを受けた。パラダイムとはなんと恐ろしい事か。
 
 "なんちゃってプログラマ"の私が、ちゃんぽんに言語を弄ってきて、いつも思う事は、「どれだけ一つのプログラミング言語を追求してやりこんできたか」が、いかに重要かって事。
 確かに、色んな言語を触ってれば物怖じする事は無いが、いざ一から組み始めるとどうしても、自分が得意とする言語でどれ位経験を積んだかがソースリストに現れてくる。
 大抵は工夫次第でどんな事でも解決できるのだが、触った程度の浅い知識では引き出しが少なすぎて、スパゲティや無駄が出来てしまう。何より美しくない。
 美しく読みやすいソースを書く事、つまり私以外の人間が、簡単にプログラムの修正を出来るという事は、「私の仕事を減らせる」という最も重要な利点があると共に、時代に合わせて発展させ、永続的に資源を再利用するというフィロソフィーが有る。

 私は元々実験系の研究室出身で、主に数値計算はエクセルでソルバーを弄る程度の事が多く、結果に合わせて理論をフィッティングする事が多かった。
 その為、プログラミングはQuick-Basicで測定装置を自動制御する事に主眼が置かれ、解析は膨大なデータを有る程度までQuick-Basicでまとめた後(グラフ位は書かせるが)、最終的にはエクセル等の表計算ソフトやオリジン等のグラフソフトで解析していた。
 会社に来てからは、基本的な装置制御はシーケンサ(PLC:Programable Ladder Controllar)のラダー・シーケンス(実体はアセンブラ)で組み、解析はVBAを使って来た。
 しかし、製品設計や不具合解析のかなりの部分でモンテカルロシミュレーションが導入される様になると、マクロプログラムの記述や計算コードに、非ビジュアル系言語である、FORTRAN、C、LISP、(又は専用マクロBASIC)をしばしば使うようになった。
 VB、VC++、JAVA、HSP等、ビジュアル系言語がこの世の春を謳歌する中、特に此処に来て、古典的非ヴィジュアル系言語であるCやFORTRAN、LISPの使用頻度が上がってきたのは、私が時代に逆行していると考えるべきだろうか?

 実に、IBMがシリコングラフィクス社をあざ笑っていたあの時代から四半世紀を超え、コンピュータが表示機器と強く結びつき、PCの性能が如何に美しいGUIをユーザに提供できるかに注力され、その事が大きな顧客満足を生む様になった現代、商業的にも個人向けにもGUIは大きな歴史的役割を果たしてきた。
 GUIは顔である、とっつきやすくわかりやすいPCの顔。何でも良くいう事を聞いてくれて、しかも見た目も美しい顔は、それだけでも十分存在価値が有る。言わばメイドの様な物であろう。
 ユーザつまり、ご主人様は、耳の遠い家政婦さんに一から仕事を指示していた昔と違い、この美しいメイドに自由に何をさせるか決める事が出来るようになった。しかもかなりアバウトでも何とかしてくれる。

 最近の私のプログラミングは、メイドが対応できない仕事の手順書を作ったり、メイドが既に対応できる仕事を組み立ててもっと大きな仕事が出来るように、計画書を書く事に特化されている。
 この事はつまり、人間がもっとマクロな視点で物事を考えられるようになったと理解すべきだろう。
 単純な方針をPCに与えて作業は全て自動で行い、自分はもっと創造的な事に思いを巡らす。
 これが本当にコンピュータを使っていると言える構造ではないだろうか?

 Visual系言語は快適なインターフェイスを提供すると同時に、複雑なプロパティ設定を設計者に要求する。
 これでは人間がPCに使われているのと同じである。
 プログラマーがPCに伝えようとしている本当に必要な事だけ指示して、OUTPUTはポスト処理専用のプログラムに流し込んで表示させると言うのが、最もシンプルで手間の少ないPCとの付き合い方であるように私には思えるのだ。
 そういう意味では、非ヴィジュアル系多言語でマクロプログラムを書ける程度の知識こそが今後必要になってくると、私は思っている。

 ・・・・・・だが、実際にはそこまで進化していないので、インターフェイスにも、外部コードにもかなり人の手を掛けないといけないのが現状だ。マクロプログラミングにしても、ファイル構造が複雑に成って来るにつれ、手間も膨大になってくる。
 この手のプログラミングに、「無限のリバイアス」というTVアニメに出てきた、「Solid」みたいな概念が導入されれば非常に三次元的な面白いプログラミングが出来そうなのにな、と日頃思ったりする。
 できれば、Soildをヘッドマウントディスプレイと手に装着したマニピュレータを使って、仮想空間で組めたら面白い。
 そこまで行かなくても、もし普段大量に測定してCSVやTXT形式にして保存しているファイルが有り、それを一々開いてワークシートに貼り付けてまた閉じるなんていう馬鹿馬鹿しい作業をしているなら、今すぐ辞めてVBAを導入する事をお勧めする。

 VBA(Visual Basic for Applications)はエクセルに標準搭載されているので、新たにインストールは不要だ(もし、インストール時に入れ忘れていたならいつでも追加できる)VBAはエクセルの操作手順をVB方式で記述しているに過ぎない。
 つまり、単に記録型マクロで手順を覚えさせ、そのマクロスクリプトを開くと、それはVBで記述された操作手順になっている。
(それを読めば大抵、この言語を習得できるようになる。わからない事が有ればF1キーを押せば良いし、どう記述すれば良いかわからない時は、記録マクロで実際やりたい手順を記録させ、それを見れば良いのだから)
 これの余計な部分をそぎ落とし、ループや入力ダイアログ表示と自動ファイル入出力を後付するだけで、個々のファイルの解析結果だけを別のワークシートに表として纏める事も出来るし、ワークシートにその表を使ってグラフを書くようにしておけば、自動でグラフが描かれる。
 この程度の事は、ものの一時間もあれば実装可能でしかも、リソースとして再利用も可能。
 同様の方法を使えば、大量の写真を選択するだけで、ワークシートに同じ大きさで(例えばセルと同じ大きさで)綺麗に並べて貼り付けるなんて事も自動で出来るようになる。
 また、既に大量に作ったファイルの中に描かれて居るグラフの書式やレジェンドを一度に同じ設定に替える事も出来る。

 会社ではVBAの簡単な活用方法を部署内の講習会で教えたりしているが、もし需要があれば、こういった事を自分のHPでもやってみるのも良いかな〜と思ってる(何でも出来るって訳じゃないんだけどね)。
 ・・・・・・等と偉そうな事を書いているが、暫くはFORTRAN77のテキストとにらめっこ続けよう、とほほ・・・。

「リチウムイオン電池は何故発火するのか?」 2006.11.3

 最近のソニーのPC用バッテリー不具合でお気付きの方も多いと思うが、リチウムイオン電池は我々の生活に非常に密着した、おびただしい場所に存在している。
 それはモバイル用途の様々な製品、例えばノートPC以外にも、携帯電話、一部のデジタルカメラ(一眼レフなどの高級タイプ)に普及したからだ。
 このような普及の背景には、リチウムイオン電池の軽量・高密度性がモバイル用途の激しい要求に合致した事に強く起因する。
 それ以外にも、ニッケル水素電池と比べて、メモリー効果が無い、自己放電が殆ど無い(月10%以下)等、性能面では圧倒的に優位である事は周知の事実であるが、意外にも大型充電池・汎用規格充電池等への利用はニッケル水素電池に比べて採用が遅れている(箱の中に入ってる電池そのものは単三電池の形をしているが、そのまま使う訳には行かない)。
 特に、ハイブリッドカーに搭載の充電池は殆どがニッケル水素電池を採用している。

 その理由は二つ有ると思う。

 一つはコスト、これはリチウムイオン電池に使われる部品に高価な物が多い事が原因する。
 リチウムイオン電池の(放電)動作原理を簡単に説明すると、
 
a)先ず、負極側の電極である炭素(グラファイト等)に吸蔵されたLi(金属状態)が、Li+(リチウムイオン)となり放出される。この時、電子が生じるので、電池の外部で負極と正極が電気的に繋がっていれば、正極へ流れていく。つまり電流が流れる。

b)放出されたLi+は有機電解液に解け、電池の内部で隔壁(セパレータ)として存在している浸透膜を通過し、正極電極として動作しているLiCoO2(コバルト酸リチウム)に吸蔵され、此処で外部の配線を通し入ってきた電子と結合したLi+がLiとなり部分的に生じているCoO2(酸化コバルト)と反応し安定化する。

 上記の要領で、電位差3.6Vで電気が流れる。
 充電中は、逆向きに3.6Vよりも高い電位差を両極に印加して、強引に負極に電子を逆流させ、正極からは電子を吸い上げる。
 そうすると、上記と逆向きに反応が起こり、負極ではLiが炭素中に戻り、陰極はLiCoO2がLi+を放出する。
 なぜ、配線をつなぐと勝手に反応が起こるのかと言うと、その方が安定だからである。だから普通にしていれば(つまり、隔壁が無ければ)、炭素はLiを吸蔵していない方が安定だし、LiCoO2はLiを吸蔵している方が安定であるが、隔壁が絶縁されている為、自由に電子が行き来できず、電位差(電圧)が生じるのである。(すなわち、その系がどの程度不安定かが、Potential[電位差]と言うものである)
 この正極材料は酸化コバルト複酸化物を使っているが、この酸化コバルトは結構高い。元々埋蔵量が少ない(約960万トン)うえに、2004年頃、生産量よりも消費量が上回る逆転現象まで生じて、価格が2002年の三倍まで高騰した。現在も二倍程度で推移している(中国での消費は急拡大中)。
 コバルトをふんだんに使うリチウムイオン電池では、コストの少なく無い部分をこのコバルトが占めている。そのためニッケルやMnへの代替も進んでいるが、エネルギー密度や寿命の面で問題も抱えている。
 負極についても、グラファイトやハードカーボンに替わり、ハイエンドユーザ用にカーボンナノチューブを使用する物も有り、これがまた馬鹿高い(主にロイヤリティのせいだと思うが・・・)。
 また、後述する安全性の面からも、電池単体での保護回路が必要であり、この事がパッケージングを特殊にさせているのみならず、コストに影響を及ぼしている。

 もう一つの理由は安全性である。
 リチウムイオン電池は急激な充放電で発火・爆発する。
 また、単にパッケージングを破壊しても発火する。
 先ず、使用されているコバルト酸化物は過放電で還元されると部分的にCoが発生し、常温で再度酸素と爆発的に反応して発火する。
 過剰な充電で負極内に金属Liが多量に析出していれば、破損時にそれが発火する危険性も有る。
 また、有機電解質は高温で分解しガスを発生し膨張・発熱。そのものも発火性を持つなど、様々な部材が発火・爆発する危険をはらんでいる。
 従って、電池には制御回路が搭載されており、過剰な充放電が無い様、10mV単位で制御している。
 しかし、この事がリチウムイオン電池の充電速度の制限に繋がり、大きなデメリットになっている。
 また、これを改善した東芝の製品では、負極にナノ微粒子(多分、カーボンナノチューブ)を採用する事で、一分で80%の急速充電に成功している。
 電池内の膨張に際しては、組み込まれた回路が独自に充電を停止したり、安全弁からガスを放出したりして、危険を回避している。
 しかし、物理的な衝撃で隔壁を破壊するなどした場合、急激な化学反応で発熱・爆発・炎上となる場合がある。
 今回のソニーの一件の様に、隔壁に金属不純物が混入して短絡したのも同じ理由であろう。(短絡した場所がやばかった)
 携帯などに使用されるリチウムイオンポリマー電池(角型のもの)では、電解質がゲル化しており、激しい反応が起こりずらい(流動性がゆっくり)ため若干安全性が上がっている。

 纏めると、ニッケルイオン電池は充放電の制御回路が付いてないか、高温下で使用すると、普通に発火するという事。
 このような観点から、特に安全性とコストが重視されるハイブリッドカーの充電池や、単三電池等の汎用コンシューマ製品で、どんな使われ方をするかわからないものに対しては、リチウムイオン電池が採用されにくい情勢がある。

 余談になるが、リチウムイオン電池はニッケル水素電池と違いメモリー効果が無い。これは携帯やノートPCなどで小まめに充電する用途では非常にメリットが高い。
 簡単にメモリー効果を説明すると、放電が十分に完了していないのに充電すると、充電しても電圧が十分に上がらず使用時間が短くなる現象で、まだ電気が残っているのに充電を繰り返すと起こりやすく、このせいで充電したのにデジカメが動作しない不具合が起こる原因となっている。
 これは、十分に放電させる事によって再生する事が出来るので、refresh機能の付いた充電器を使用すれば、殆どの場合メモリー効果を解消できる。
 しかし、自作の抵抗回路に繋いで放電させたり、懐中電灯等に仕込んで放電させる事は危険である。電圧が1V以下(放電終止電圧)まで過放電させると、かえって電池の寿命を縮める事になるからだ(転極がその主な原因)。
 また、refreshもあまり頻繁にやると、やはり電池の寿命を縮める事になる為、充電十回に付き一回程度が望ましいらしい。

 一方、リチウムイオン電池の場合、メモリー効果は無いものの、フル充電状態で放置すると電池寿命が短くなるという別の問題がある。
 これは、負極のグラファイト中に大量のLiを長時間吸蔵させておくと、構造劣化が進行する事による。
 また、ノートPCに繋いだままだと、頻繁に充電を繰り返して満タン状態にされたうえ、CPUの排熱で高温に維持される事になり、これが電解液の劣化(化学反応)を更に進行させる。
 従って、長時間使わない場合は、満タンで放置せず、充電状態が50%程度にして、冷暗所に保存しておくのが良いらしい。

ttp://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/020ae06a74b736e4ed4c2a3dcceaed4d
↑記事の内容が笑える

「めもり」 2006.9.18

 昨日、USBメモリを買った。

 5,000円で1GBだった。
 もっと安いのも有ったが、安けりゃいいってもんでもない。
 Buffaloの「Clip Drive」は小さいから好きだ。
 光ったり、形がカッコ良くても、密集して挿せなければ意味が無い。
 延長アダプターコードも持ってるけど使う必要が無ければそれに越した事は無い。

 ・・・思えば、このサイズで20年前の150万倍の記憶量である事を思い起こすと感慨深い。
 少し、昔を思い出してみよう。

 一番最初に、PCと呼べる物に触れたのは「ぴゅう太」だった。(当時小学生)
 しかし、これは当時としては異質の16bitPCで、通常のBASICが8bitのマシン語ベースに乗っかっているのに対し、ぴゅう太は16bitのマシン語に乗っかったBASIC上に、日本語BASICが乗っかっているという物だった。
 RAMは16KBと今では信じられないサイズだが、テープレコーダでプログラムを読み出すのには5分以上掛かった(baud rateを変える事で、変調速度は可変)。
 読み込みの時間と手間を無視して容量と言う意味では、磁気テープは当時ですらDISC型の媒体に比べて大きく引けを取る物ではない。
 事実、現在に至るも、ランダムアクセスしない企業のデータバックアップには磁気テープが用いられている。
 単価が安い(数千円〜数万円)という事も有るが、転送速度100MB/s、一本で2.4〜5.2TB(圧縮時)の規格が発表されており、これを100本自動で扱えるライブラリ装置も存在する。
 しかし、これはあくまでサーバのバックアップが主目的のメディアであり、ランダムアクセスが基本の個人の記録媒体としてはあまり馴染まない。

 その後、PC-8801mkII発売辺りからは、8bitマシンで普通にフロッピーディスクが搭載されるようになり5インチFDが普及した。
 その前に9801でも8インチが有ったが、標準搭載ではなかった。
 その時点で容量は320KB(2D)、当時値段は10枚で1000〜3000円した(300円の安いのも有ったが良く壊れた)。
 100円あたりの容量は32KBという事になる(この2Dの未開封品はプレミアがついて現在はノーブランドで10枚10000円以上で取引されている)。
 その後、後継機で2DD(640KB)や2HD(1.2MB)が扱えるようになった。
 だが、この5インチ時代は本当に長かった様に思う。
 中学、高校とこの5インチにお世話になり、大学に入っても四年生位までは、メインは5インチを使っていた。
 もちろん3.5インチも既に出ていたが、なんかこう、信用できないというか、高いし、堅牢に見えるんだけど、良く読めなくなって捨てる事が多かった。
 その頃のメインのマシンはPC-9801。
 私自身は持っていなかったが、触るのはこのパソコンが多かった、パソコン通信が段々身近になってきていた時代でも有った。
 私が大学に入った頃の情報科学演習の授業では、FORTRANを端末でいじっていた。
 グリーンディスプレイの日立の端末から、ホストにアクセスしてプログラムした行列の計算結果を得るのだが、私にとってはつまらない課題だった。
 その後、SAS(だったかな)を使った統計処理なんかをやらされたが、ふーんって感じだった。
 別に便利だとも何とも思わなかった。
 私の二つ上の先輩は、この授業を全てパンチカードで行っていたそうで、身震いがした。
 80文字分の情報をやり取りできるので、プログラムやデータを打ち抜いたパンチカードを50枚とか100枚とか入れると、結果がべろっと出てくる。
 今思うと気が狂いそうだ。
 これも立派な記録メディアだ。プライスレス。

 大学四年になって初めてWindowsを使った。
 他の研究室と比べると早かったと思う。
 メールアドレスを貰ったのもこの時期だ。
 同時にロータス123とExcelを使った。
 当時、Windows機(もちろんPC9801DAなんかで動いてる)は貴重だったので、DOSベースで動いているマシン(VMとか)ではロータスを使ってデータを解析する。
 システムとデータは2ドライブの5インチFDだった。
 初めてロータスを使った時の衝撃は如何ほどの物か、若い人にはわからないと思う。
 この後、エクセルでソルバーを使い、非線形最小二乗法で測定データを解析するようになって、私はプログラミングという呪縛から解放されたと思った。
 ひたすら、アプリケーションを使いこなす事に没頭した(この頃使っていた他のアプリは一太郎、ワード、ページメーカ)。
 それで、エクセルを使って膨大なワークシートを作成しているうちに、ちょっとフロッピーディスクでは物足りないと思うようになった。
 もちろん、ハードディスク(HD)は存在していたが、30MB位でも結構高かったし持ち歩くのもアホらしい大きさだった(それでも持ち歩いたりしてたけど)。
 結局、FDとかSHELLを使ってファイルを圧縮したり、分割すればなんとかやっていけた時代だった。
 こんな苦労をしながらも、5インチフロッピーはまだ全然やっていけた。

 修士になり、別の研究室に移った私はまた愕然とした。
 その研究室は基本的にDOSベースの研究室で、Windows機は極端に少なかった。
 代わりに、測定機器が発達していたので、低スペックのPCによるデータの取り込みや記録が自動化されていた。
 エクセルに慣れてプログラミングを疎かにしていた私も、QuickBasicを使って測定機器を動かす必要に駆られて、構造化プログラミングを初体験した。
 それぞれHDは搭載されているが全てがネットワークに接続されているわけではないし、されていても当時のサーバのストレージ能力は実用に耐えられる物では無かった。
 結局、データのやり取りはフロッピーを介する事が多かったが、この頃、Windows機が3.5インチ搭載モデルに移行していた。
 データは、DOSマシン同士なら5インチで良いが、データをエクセルで処理するのにどうしてもWindowsにもっていく必要があった為、結局緩やかに5インチから3.5インチへと移行していった。
 この時、SCSIの3.5インチ外付けフロッピードライブが大活躍した。
 その段階で、3.5インチは1.44MBの容量になっていて、値段は一枚150円位だったろうか。
 100円当たりおよそ1MB。
 意外と厚みがあり、気に食わなかったし、良く壊れたので腹の立つ事が多かったが、その状態は現在に至るも改善されていないのは不思議に思える。
 しかし、便利なワードパーフェクトや、NGRAPHを使うようになって、段々と扱うデータや、文章の量が膨大になってきていた。
 測定データは数は多い物の、データ量はバイナリなので小さいが、解析後は結構大きなサイズになり数も多い為ディスクの輸送では良く事故が起こった。
 この不便さを解消する物として、MAXLINKが活躍した。
 これはRS232Cとケーブルさえあれば簡単にパソコン同士をつなげる事が出来て便利だった。
 転送速度は今では考えられないくらいの遅さだが、当時フロッピーと比べれば驚きの速度と、手軽さだった。
 しかしこれもPC同士を接近させなければならない等の観点から、普及しなかった。
 結局、輸送と言う観点からは、複数の3.5インチフロッピーを抜いたり挿したり、壊れたりする、不自由な時代だった。
 一方、HDは120MB位のものが手軽に買える様になっていたので、かさ張る事さえ我慢すれば、大容量持ち歩きは既に始まっていたのかもしれない。
 一部ではZipドライブも使われていたようだが、何故か身近には利用者がおらず、ワードとWindowsDrawで書いた修士論文を3.5インチフロッピーに分割して記録して、企業に就職した。

 会社に行って驚いたのは、Windows機とMacが共存していた事。
 大学の研究室には必ず一人くらいはマックを使っている人が居たが、会社では一対一ぐらいの比率だった。
 しかも、Mac派はAppleTalkというローカルネットを築いて居り、ようやくWindows95によってデータのシェアリングが始まった物の、Macに対しては大きく溝をあけられた状態にあった。
 Mathematicaによるデータベース化がMacで進んでいた事が影響したかもしれない。
 インフラが整備されれば、データの持ち歩きは不要とさえ思われた。
 結局、ここでは四年生の頃と同様に、測定したデータは手作業でWindowsに打ち込む仕事が多く、間を置かずに大学に戻ったので、フロッピー以外のメディアを触る事が無かったが、5インチのフロッピードライブは死滅していたと思う。

 大学に戻って来ると、Windows95の入ったPCが何台か導入されていた。
 そして、同時にMOが取り付いた装置もかなり増えていた。
 この時点では、最早MOは大容量リムーバブルディスク代表として台頭していた。
 しかし、メディアの値段は未だ高かった。
 128MBが5枚で3000円位、つまり一枚600円。
 しかし、100円当たり21MBは十分実用性があり直ぐに普及した。
 この頃からネットワークインフラが非常に発達し、PC間のデータ転送はLAN回線で行われるようになった。
 この時点で研究室内のデータ輸送でフロッピーが必要になるケースは極端に減少した。
 しかし、Windows95でデータをシェア出来る範囲は限定されているので、他の研究室にデータを持っていく場合や、古い測定装置に繋がった古いPCとは、フロッピーディスクや場合によってはMO(SCSI接続)を利用した。
 MOが普及するのは、スキャナーやデジカメによる画像やビデオによる動画等の大容量ファイルの出現が必要だった。
 しかし、この頃はまだそれ程多くなかった為か、多くはフロッピーディスクに無理やり入れて運んでいた様に思う。
 しかし、デジカメとノートパソコンとUSBの台頭によって状況は徐々に変化していく。
 ノートPCは97年頃から勢力を強めていった。
 それに標準的に搭載されていたPCMCIAスロットは、拡張スロットとしての機能と言うよりは、各メディアとのインターフェイスボードとしての役割を果たした。
 少し遅れて爆発的に普及したデジカメに採用されたコンパクトフラッシュ(CF)、スマートメディア(SM)等は、小型で大容量である事から、単なる画像記録媒体としての役割以外にも、データ輸送メディアとして注目されていく。
 やはり98年頃から急激に標準搭載されていくUSBもインターフェイスとしての役割のみならず、高速化されるにつれてメディア接続用拡張スロットとしての機能を認識され始める。
 当時私は、大容量の記憶やバックアップにはMOと決めていた。しかし、MOを標準搭載したPCは殆ど無く、それ故に今一汎用性に優れず、様々な研究室で仕事をする事の多かった私は不便に感じる事も多かった。
 ノートPCが普及するにつれて、もう一つ大きく社会に溶け込んだのはデータプロジェクターだった。
 96年当時は、ハロゲンランプを使用したおもちゃが、液晶画面を投影して、プレステーションのゲーム画面を天井に投影してみんな寝転んで対戦ゲームをやった事が有ったが、2000年頃から、150気圧を超える、超高圧水銀ランプの登場で、一気に明るさが向上し、多少明るい環境でもプレゼンテーション用ツールとしてデータプロジェクターが使えるようになった。
 当時、まだそれ程学会で使われる事が少なかったDLPプロジェクターとパワーポイントを使って、博士論文の公聴会をやった時は、内容の質問よりも、プロジェクターの事を聞かれるなんて事もあった。
 大容量HDを持つノートPCを持ち歩いても、データを渡そうとすると、それ程簡単じゃない。
 しかも、渡したいデータはプレゼンの内容だったり、画像だったりして、とてもフロッピーでは事足りない。
 メールでも大きすぎる。
 そんな時、私は迷う事無く、CFアダプターを使ってPCMCIAスロットを通してデータをCFに入れて渡していた。
 ドライバーの導入の必要も無かったので便利だった。
 他にスマートメディアをフロッピーアダプターに入れて、移送する方法も有ったが、ドライバーが必要な上、とにかく時間が掛かりすぎて、気が狂いそうだったので普及しなかった。
 しかし、当時デスクトップにはPCMCIAスロットは無かった。
 拡張スロットなら、ISAやPCIがあるから無用と考えていたのかもしれないが、ノート⇔デスクトップのデータ輸送は手軽ではなかった。
 その頃、周辺機器とのインターフェイスと考えられていたUSBに、様々なフラッシュメディアを読めるマルチアダプターが登場した。
 ドライバーが必要な事も多かったが、ノート、デスクトップを問わず、ほとんどのPCで利用できる事から、私もこれに飛びついて活用した。
 しかし、そのアダプターと同時に、それならいっそUSBに直接フラッシュメモリを付けちゃえ的にUSBメモリが普及し始めていた。
 最初、私自身はそれにあまり魅力を感じなかった。
 アダプターで事足りていたし、CFやSMはデジカメにも使えるから汎用性が高いと考えていたのかもしれない。
 しかし、結果として、USBメモリは可搬型マスストレージとして完全に定着した。
 理由は、アダプターよりも小さく、ドライバーもOSに内蔵され、かつ安いからだろう。
 直接挿せると言うのが強みか。
 容量はこの期間、どんどん大きくなった、しかし容量単価はあまり変わっていない。
 1GBで5000円って事は、100円で、20MB。
 容量の低いものでも、せいぜい30MB/\100
 逆にかさ張る事を無視すれば、外付けHDは100円当たり500MBと超割安。
 しかし、小さくすると絶対此処まで安くならないし、ガラスで出来たHDは堅牢さから考えてもフラッシュメモリには適わないだろう。

 大きさと言う意味では、USBメモリは、SDカードや、CFには適わないが、最近はデータロガー等の記録媒体にUSBメモリを採用するメーカも出てきている。
 ICレコーダ等はそれ自身がUSBメモリとして機能するし、USBメモリに幽霊探知機能の付いた訳の分からないものまである。
 このような、汎用性から今後もUSBがインターフェイスと記録媒体の大きな役割を果たしていく事は容易に想像できる。

 ・・・しかし一方で、そのUSBメモリの汎用性が、個人情報保護の観点から大きな問題として捉えられている事も見逃してはならない。
 個人情報に限らず企業の機密情報は、流出した場合大きな社会問題を引き起こす恐れがあり、企業としてはその防止にどの程度手を尽くしてきたかが、厳しい目で株主ひいては社会全体から評価されている。
 その意味で、此処まで普及したUSBメモリを社内で野放しにしておくと、そのリスクを回収しきれなくなると考え始めた。
 例えば、個人情報の入ったUSBメモリを社外で持ち歩いて落としたとする。
 それを拾って、中身を見たら個人情報が流出する。
 それだけではない、拾った人間が、その企業を脅して、金をよこさないと個人情報をばら撒くぞ、何て事例が実際に存在するのだ。
 具体的な対策として、USBメモリにセキュリティソフトを搭載したものを採用する事にした。
 つまり、USBのメモリ内にセキュリティエリアを設け、その中を暗号化する方法である。
 そしてそのエリア内にはパスワードを入力しなくては入れないようにしてある。
 もちろんこの様なセキュリティで万全かと言われると疑問が残る。
 また、セキュリティソフトの入ったUSBメモリは、PC以外の殆どのUSBメモリを記憶媒体として使用する機器に対応していない。
 機器の方も、セキュリティソフトの規格が統一されない限り、個々のソフトに対応するのは難しいと言った問題がある。
 更に、最も普及したリムーバブルディスクとしてUSBメモリが、最初に槍玉に上がったが、CF、SDカードにも同様の問題が波及するのは時間の問題である。
 現在の所、デジカメ等に利用する事が多い為、対象にし難い事情もあるが、本質的な問題の解決に至っていない以上、厳しい指摘がなされ、セキュリティ強化に対応せざるをえなくなるだろう。
 
 確かに、ここ20年でのポータブル・データ・メディアの進歩はムーアの法則を超えている。
 これからもその恩恵にたっぷりあずかりながら、法則の限界まで大容量化は進歩と変革を続けるだろう。
 しかし、我々の利便性は、危険性との諸刃の剣で成り立っている。
 便利さの余り、注意を怠ると思わぬしっぺ返しをくらうかもしれない。

「夏バテにはウナ電」 2006.8.5

 職場の回覧で、

「ウナ!」

って書かれてると、

「ああ、ウナか。」

って急いで読む様にしてるけど、実際ウナってなんだか知らないで急いでいた。

「ウナってなんだ?」

って、一回位は考えたと思うんだけど、

「これウナだから急いで回してね。」

って言われて、ああ、ウナだから急いで回さなきゃいけないんだって理解したんだと思う。
 それでそのまま、自分も使ってたり。

 これ調べてみると結構、2ちゃん用語っぽい所がある。
 英語のurgentはしつこいって言う意味もあるけど、「急を要する」って意味もある。
 これの頭二文字を取った「UR」はモールス符号でカタカナに変換すると「ウナ」になる。

 なんでこんなややこしい語源になったのかと言うと、もともと電報通信の用語だからだ。
 ご存知の通り、電報はNTT(旧:電電公社)がやっているサービスの一つで、郵便よりも早く届く通信手段として、電話が普及されるまでは緊急連絡手段に用いられていた。
 この電報には普通電報、書信電報、至急電報の三つが存在する。
 至急電信は「速達」みたいな物で、料金が通常電報の二倍になるが、配達優先度が高くなるため早く届く。
 ここで、電報がどのように送信されるか解説しておこう。

 電話が一般に普及する前、電報は主に電報局間で電話線を使用した、モールス信号として、人力により発信と解読を行っていた。
 利用者は、NTT電話局窓口に行き、宛名と住所、送りたい文書の内容を示す。文字数に対して課金される為、省略語が存在する。(よくある、「ハハキトク、スグカエレ。」なんかも定型文書が存在した筈)
 電報局に送られたその文章は、局員によってモールス信号として配信先に近い電報局に送られる。
 モールス信号は、モールスが考えたonとoffのみの信号で、「・−(トンツー)」⇒「イ」のように文字を表す。現在でも無線免許の試験に出たり、ボーイスカウトの技能章取得の為に習ったりする。(ちなみにモールスは単身赴任中に奥さんの死を一週間後に手紙で知らされた為、電信を開発したそうだ)
 配信された電報局は解読結果をタイプで打ち出して、送り先の住所まで配達員が運んで行く。

 国際電報では、至急電報を送信する際に、宛名と住所の前に、URGENTを意味するURを付ける、これが日本語でウナとなり、至急電報がウナ電と言われる所以となった。

 電話、E-mail、FAXが普及した現在、電報の役割は慶祝電報、弔慰電報に利用されるのみとなった。
 社会人になれば知り合いの結婚式に出席できない時等、一度くらいは電報を利用した人は多いのではないだろうか。
 もちろん、現在は電話局にわざわざ電報を出しに行く人は殆どおらず、申し込みは電話とインターネット経由が主である。
 一ヶ月前から当日の朝7時まで申し込み可能であり、ミッキーマウスの縫いぐるみに電報の入った筒を持たせる事も出来るし、オルゴール付きの電報を送る事も出来る。
 いずれにしても以前ほどの重要性は無く、文章そのものの重要性よりも、形の残る贈り物としての意味合いが濃くなっている。

 しかし国際電報は、国際テレックスや国際ファクシミリの発達していない国との国際取引が行われる場合に便利であり、未だ重要である。
 第三世界とのビジネスが拡大している今日、取引初期の通信手段として電報が利用される場面は増えてくるかもしれない。

「値上げ」 2006.7.17

 ガソリンが大幅値上げ。
 タバコも値上げ。

 ひょっとして、インフレが始まってる?
 この値上げは、実体経済の成長を反映した物ではない筈。

 イラン戦争頃に、先物で原油買い始めた知り合いは今頃ウハウハでしょうな。
 始めた頃は冗談で、

 「スクータしか乗れへんくせに、油なんか取引しやがって。限月が来て現物が届いたら、どないすんねん?」

とかアホな事言ってたが、そんな心配は無さそう。

 原油値上げの原因が、中東情勢にあるって言うと、一見、納得しちゃいそうだが、実際は、鉄も原油も中国等の消費量が急上昇している事に価格上昇の原因がある。
 要するに、資源供給が逼迫してる。

 中国の石油消費量は、アメリカに次ぐ二位、日本は三位。
 増加の原因は主に自動車で、ここ20年、自動車の数は12倍に増えた。
 しかも消費伸び率は今後も高止まりで、人口を考えるとガクブル。
 何時からこんな状態になったんだろう?

 ゴールドマンサックスが2003年に今後急成長しG7を上回る可能性があるのは、BRICs
Brics=ブラジル・ロシア・インド・中国
 ・・・と発表したが、その中にあって、中国は地理的にも経済においても、「巨竜」の名に恥じない成長ぶり。

 ただ最新の投資対象としては、「BRICsなんかもう遅い、今は、南アフリカだ、N-11(ネクスト・イレブン)だ、」という風潮もある。
 N-11の内訳は以下、

「韓国、バングラデシュ、エジプト、インドネシア、
イラン、ナイジェリア、パキスタン、フィリピン、
トルコ、ベトナム、メキシコ」

・・・ゴールドマンサックスさんは何処まで本気かよく分からない。

 化石燃料である原油は、このまま人口の多い国がどんどんエネルギーを消費すると、当然足りなくなるであろう事は、容易に想像できる。
 ところが原油埋蔵量は、意外にもそう単純な減少を示していない。
 これは、様々な経済状況と各国の思惑、それから技術革新等が大きく影響している。

 例えば、カナダの「オイルサンド」(又はロシア・アメリカのオイルシェール)は、現在の原油高の経済状況で、非常に注目されている。
 アルバータ州北部の原野には原油(ビチューメン)を含んだ土砂が広がっている事は、三十年以上も前からよく知られていたが、このオイルサンドから原油を取り出すのには、色々と手間がかかり、コスト面で大きな問題を抱えていた。

 ところが、この頃の原油の価格上昇のため、その価格差が縮まり、競合するようになって来ている。

 オイルサンドを精製した原油価格=$30〜60/バレル
 現在の原油価格=$73/バレル

 どうだろう?
 カナダは、政情的にも安定しており、価格の変動は少なく、リスクも低いと言える。
 しかも、埋蔵量は普通の原油よりも多いらしい。
 ただパイプラインの問題などもあり、日本への輸出はまだ殆ど来てないらしい。
(余談だが、カナダは世界最大のウラン産出国でもある、その癖、エネルギーは水力・火力発電に頼っている)

 また、石油は無くなる無くなると昔から言われているが、新しい油田が見つかったり、産油国が埋蔵量を少なめに発表して、年々増やして行くので、なかなか無くならない。
 30年前から狼少年の様に、あと30年しか持たないとずっと言い続けている。
 従っていきなりぽっくり無くなるという事は無い。
 ただ、生産量がゆっくり減少していく可能性は有る。
 枯渇したのではなく、出にくくなって行くからだ。
 従って、生産量を上回って、需要が増大した場合、価格はこれからも高止まりを続けるかもしれない。

 タバコ値上げについては、最近はキセル復活と言う言葉が聴かれる様になった。
 キセルで吸うと確かに安くなるらしい。持ち歩くのがめんどくさく、メンテが要り、紙巻タバコよりも気軽さが足りないので普及しないだろう。

 私はもう禁煙してから2年以上経つが、ドイツに居た頃は一箱400円以上という高値にも負けず吸い続けていた。
 そこで初めて手巻きタバコに出会った。
 手巻き紙タバコは単純に、たばこの葉と、紙と、フィルターで作る。
 一本分に切った紙を束ねたティッシュの様な物から、紙を一枚取り出し、その上に袋に入ったタバコの葉(これはいろいろな種類があり、香や強さも違う。一袋で何本作れるかわからない位入っている。値段は忘れたが800円しなかったと思う)をほぐしつつ乗せ、筒状に軽く丸める。
 そしてフィルターを置き、紙の端を下でぺろっと舐めて、くるくるっと巻く。あまりぎっちりつまらないように、紙がふにゃふにゃにならないようにするのはかなりコツが要る。
 葉の量やフィルターの種類を変える事で、強さはある程度調整できる。
 一緒に住んでたMarkは綺麗に巻くのに、私はなかなか上手く巻けず、よく教えて貰いながら作った。上手く巻ける様になった頃には、めんどくさくなって余り作らなくなったが・・・。
 ドイツではそもそもタバコ自体が高いので確かにメリットは有った。多分日本でも、家で巻いて会社に持って行ったりすれば、幾分コストダウンになると思う。
 セロハンなど余計なゴミも少なく、エコかも。
 また、多分これらは日本でも手に入ると思う。ドイツでは、コンビニ(Kioskとかガソスタの事)でも売っていたし。
 ま、続けるには根気が要ると思うが・・・。

 最後に禁煙したい人に、アドバイス。
 止めれる人と、止めれない人が世の中にはいる。
 それは、どれだけ長く吸おうが、吸い始めだろうが関係ない。
 タバコもライターも全部捨てて、それでも止めれないなら貴方は止めれない人だ。
 体質かもしれないし、遺伝子の性かも知れない。
 珍しいから、吸い続けてもいいんじゃない?

「夜勤」 2006.6.24

 今更なんだが初夜勤である。
 と言っても、朝まで作業する訳では無い。
 管理責任者として朝まで作業の見回りをするのが仕事。
 要するに、見回りの守衛のおっちゃんみたいなもの。
 だから、暗くて人の居ない所なんかを、無意味にウロウロ徘徊しながら一夜を過ごす訳。
 この夜勤当番、実はチョット期待していた。
 スルーナイトで朝まで工場うろつけるって事は、何か非日常的なハプニングでも起こらないかと(リアルな事故は困るけど)。そこから何か凄いインスピレーションを受けたりとか・・・。
 そんな訳で、そんなささやかな期待を胸に、一旦家で仮眠を取り、深夜勤務開始に間に合うように出社。作業開始挨拶も終わり、腕章を手にした。
 結構広い敷地内に、全部で50名程度の人間しか働いていないのかと思うと、感慨深い。
 スケジュールを確認すると・・・、
 朝までの間に大体二時間おきに見回りとある。
 最初見回りは、点呼後すぐだった。
 取り敢えず、ルートの書かれた地図を頼りに工場内を闊歩、まだかなり人もいっぱい残っていて、あちこちの事務所は明かりが付いている。
 「当然だ、普段ならまだ通常残業の時間なんだし」
 すれ違う知り合いに挨拶しながら、各現場のチェック項目を記入して回る。
 流石に、10年以上働いているとは云え、自分の会社の工場の中を隅々まで見て回る事なんて今まで無かった訳で、迷路のような工場内をあちこち迷いながら、現場を探し回った為、全ての現場をチェックし終わったのは11:00前。
 「なんだよ、もう次の巡回まで半時無いやん。」
 詰所ではなく、自分の事務所に帰ってきて、一息つきながら、はっと気付く、
 「何か思ってたより、時間的に余裕無い。」
 このままでは、せっかくの非日常的徘徊イベントを唯の罰ゲームの様に終えてしまうと言う危機感から、必死でルートを構築し最短のコースを編み出し、次の巡回に備えた。
 そして二回目の巡回。流石に深夜残業時間でもあり、間接部門の殆どは電気が消えており、一棟丸ごと真っ暗なんて所もあった。
 しかし、考えてみればそんな所には行く用事は無いのである。
 見回りの警備の人ならともかく、私の仕事は主に作業者の安全確認であり、無人運転の異常チェックではないのだから。
 という事は、基本的に私の行く所は、全て人の居る所という事になる。
 「これでは、昼間と変わらん。」
 殆どの現場は、外から光が入らないように出来てある。そして作業場所は明るくないと作業にならない。
 たまに無人で動くレーザ加工機から漏れる緑色の散乱光(もちろんNDフィルターを通して出てくる)をぼうっと見ながら、
 「普段、この時間なにやってんだっけ。」
 と、思ったりしつつ、次の巡回場所に移動する途中ふと気が付いた。
 休憩時間以外は人気の無いロビーは、暗闇に包まれている。
 流石に、建屋内に人が居るのは確かだが、広いロビーに誰もいない風景は、幾分異様に思われた。
 そこに、ぼうっと光る赤い灯りが目に止まった。
 普段見過ごすような場所に、消火栓が・・・。
 私は惹き付けられる蛾の様に、その灯りに近づいた。
 そして更に気付く、
 「ここだけ空気が違う。」
 暗闇に目を凝らすと、消火栓の直ぐ横の窓が開いている。
 そして、夜半から降り始めた雨でそれは濡れていた。
 「・・・休憩時間に、窓を開けて閉め忘れたな。」
 私は振り込む雨を防ごうと窓に近づいたが、床の感触の違いに驚いて歩みを止める。
 そこには、消火栓の非常灯の灯りを反射して仄暗く光る液体が床を覆っていた。
 「これは面倒だが、拭いておくか。」
 しゃがんで、どこまで浸水しているのか確認している時に、初めて異常に気が付いた。
 水溜りには壁の方から雨水が流れ込んできている。しかしその筋は窓ではなく、消火栓の下から流れ出ていた。
 消火栓の蓋は何故か閉まりきっておらず、未だその隙間から滴り落ちる液体が見える。
 私は、窓を閉めるより先にその事が気になって、恐る恐るその蓋に手を伸ばした。
 ゆっくり、蓋を開けようと取っ手に触れると、その反動で何故か蓋はひとりでに開いた。
 そして、そこから何かが床に転がり出た。
 「グシャリ・・・」
 鈍くねっとりとした感覚の音がロビーに静かに響き渡る。その後、心なしか雨音が激しくなったような錯覚に囚われた。
 私は、一瞬我を忘れて手を引っ込めていたが、それと同時に低い奇声を発していたかもしれない。
 何しろ、その異様な物は何かビニールの様なものに包まれた液体と固体で、むせ返るような臭いを発していたのだから。
 そして、何か本能的な危険を頭の隅で感じつつも、惚けた私の頭は、いつの間にかそのビニールを開けようとしていた。
 ビニールはその間も液体を滴らせていたが、気にも留めずビニール袋の結び目を解いて袋を開いた時、湿った臭いと共に、突然雷鳴が鳴った。
 
 ・・・その瞬間に見た光景は、私の脳裏に焼きついた。
 稲光に照らされたその中身は、明らかに真っ赤な色をしていた。そして、どうぶつの肉とワタの様な物が見えた。
 私は、動転してそれを水溜りに投げ捨てた。
 立とうとしたが本当に、足に力が入らず、荒く息をしながら壁に寄りかかるように立ち上がった。
 そして、一番近くにあった電灯のスイッチを一度に全部押した。
 程なく、灯りが灯り、
 私の耳に雨音が帰ってきた。そして、一瞬のまぶしさから開放されると、脳はいよいよロビーの状況を認識し始める。
 そこには、真っ赤な血溜りと、血に濡れた私の這い跡があった。
 私の制服も、手も血糊に濡れていた。
 声にならない悲鳴の後、一回大きく呼吸をした。
 真っ赤なビニールの中には、血まみれの猫の死体があった。しかも複数の。
 信じられないが、その猫ははらわたが飛び出ているにも関わらず、息をしているように見えた。
 次の瞬間、大きな雷鳴がして当たりは真っ白な閃光に満たされた。
 と同時に、電灯は全て消灯した。再び暗闇があたりを支配した時、私は気付いてしまった。
 稲光の中、窓の外に佇むシルエットを。
 その長い髪の女に握られた鈍く光るそれは、消火栓の非常灯を受けてか、赤い光を帯びているように、私には見えた・・・・・・。
 
 
 
 ・・・・・・等と言う妄想を抱きながら、ロビーの階段を降りて通路を歩いていると。
 作業者の人が、電気を消している。休憩に入るようだった。
 私も早々とチェックを済ませ、事務所に帰ってきた。
 今度は、コースに無駄がなかった分、十分に次の巡回までの時間にゆとりがあった。
 お陰で、図面を描いたり、パンを食べ、お茶を飲んだりする時間が取れた。
 また、このインターバルには休憩時間も含まれているようで、ネット等をしている内にあっという間に時間が過ぎた。
 事務所には誰も居ない、電気も私の周りだけ、その為か非常に集中でき、作業をするにしても、ネットで調べ物するにしても非常に集中できた。お陰で、巡回の事など忘れてしまいそうな位だった。

 そしていよいよ丑三つ時の巡回が始まる。
 流石にこの時間となると、構内を歩く人間はきっぱり私一人だ。
 雨の中、傘をさしながら液体酸素のタンクの前に来ると、あたりは低いスモークで立ち込めていた。
 夜の電灯に薄っすらと照らされたその一体は、とても幻想的だった。
 夜この辺りを通る事は別に珍しい事では無い。その時だって、スモークは出ているのだ。
 しかし、何かに追われるように仕事している普段と違い、辺りに気を配る程の心の余裕が、丑三つ時の夜霧の中で、一層、液体酸素タンクを幻想的にさせていた。
 建屋に入って暗い通路を進むと、巡回指定された製造ラインの電気も消えている。本日終了という事だろう。
 防火扉のようなごつい鉄扉を開け、階段を上がって行くと中二階の通路の前の踊り場に出た。
 その時、以前、女性の同僚に聞いた話を思い出した。

 ・・・・・・この棟の更衣室には、居ついている幽霊が居るらしい。

 昼間や夕方には、全然気配が無いそうなのだが、夜の八時を超えてロッカーで着替えていると、後ろから視線を感じるらしい。
 彼女の知り合いで霊感が強い女性も、あの更衣室の角には決まった時間になると髪の長い女性が居ると言っているらしい。
 ・・・そして、時間が経つと移動するらしい。
 私は、そんな事を思い出しながらも、不思議と恐怖は感じなかった。
 そう思うのは多分、階段には明かりが付いているからだろう。そこから、すうっと伸びたこの細い中二階の通路には、明かりは無く。非常口を示す緑の灯りが、辺りを薄っすらと浮かび上がらせている。
 通路の右側には二つの扉が有り、一つは件の女子更衣室。もう一つは男子更衣室である。
 私は暫く立ち止まって考えていた。
 今、この更衣室の中に、彼女は居るのだろうか?
 それともこの私の様に、目的も無く構内を漂っているのだろうか。
 その時、更衣室の反対側の壁にあるトイレの灯りが急に消えた気がした。
 ・・・おかしい。
 灯りなど無かった筈。
 いや、本当に誰か居るのかもしれない。
 どんな時間であろうと、作業者が居る限りトイレで用を足す可能性は有る訳だから。
 私は、出てくる人に悪いと思いその場を立ち去ろうとした。その時・・・。
 「・・・・・・んふふ。」
 消え入るような、小さな笑い声と共に、
 通路の奥に透き通った白い姿をした何かが闇に解けるのが見えた。
 向き直って凝視すると、そこには何も無いし、声も聞こえない。
 私は、その消えていった姿が見えた場所まで歩を進めていた。
 そこは確かに、人の姿は見当たらなかったが、女子更衣室の入り口の前であった。
 私は先程の同僚の話をもう一度思い出していた。
 この中には今、何かが居るのか?
 何故か喉が渇いていた。ドアのノブに手を掛けてから、数秒経ったが、まだ躊躇していた。
 見たい気持ちと、見たくない気持ちがせめぎ合っていたが、でも、その時は好奇心の誘惑が勝っていた。
 私はゆっくりそのドアを開いたのだ。
 私はチョット油断していたのかもしれない。
 その時、私は凍りついた。
 
 ・・・・・・更衣室の中にいたのは、私服に着替えの途中の請負女子社員だった。
 目が合って数秒後、私はとっさにドアを閉じて言い訳しようとしたのだが・・・
 その女性は私の姿を認めて、口を開けて驚いたままだった。
 声も出ない位驚いたらしい。
 しかし、彼女の姿はビデオのコマ送りの様に殆ど動かない。
 やがて、徐々に薄くなって夜の闇に解けていった。
 ほんの一瞬の事だった・・・。
 その残像の中の女性の頭は、少し欠けていた様に思う。
 閉じかけたドアを直ぐに開け直し、女性の居た場所を見た。
 そこには、もちろん何も無かったし、ただロッカーが並んでいるだけで、他には何もいなかった。
 更衣室に入った私は、彼女が居た場所に佇み、周りを見回したがやはり何もない。
 私は、寝ぼけて幻覚を見たのだろうか?
 
 ふと、その女性が使っていたロッカーが気になりそのノブを掴んだ。
 その時、背筋が急に寒くなった。
 そして強烈な視線を背後に感じていた。
 私は振り向けなかった。
 何故なら、
 その時、私の意識は・・・・・・
 
 
 
 ・・・・・・という妄想を抱きながら、階段を上がって明るい製造ラインを見回した。
 「大体、幾ら夜中でも女子更衣室は覗かないよな、普通絶対。こんなに人居るのに。」
 一通りの安全確認を終えると、巡回ルート以外の他の棟の中がどうなっているのか興味が沸いてきた。
 自分のサンプルの状態などを確認する為に実験棟に入り、真っ暗の通路を手探りで進み電灯のスイッチを入れ。周りを見回した。
 「どっちかっつうと、こっちの方が怖いよ。」
 実験棟は、試作の仕掛品や実験装置、仮置き品が無造作に通路に放置してあるので、どこで蹴躓くか分からず、怪我しそうな危険な物も沢山有るので、暗闇は危険極まりないのだ。
 リアルで事故に遭いそうだ。
 炉内のチェックや、チャンバーの真空度を一通り確認した後、
 ついでに、此処の事務所に顔を出してみた。
 ここは四月まで働いていた古巣だ。
 こんな時間でも、人が居てもおかしくない位、毎日忙しい部署。
 事務所には、一箇所だけ電気が灯り、そこに後輩の男性社員がPCに向き合っているのが見えた。

 「・・・はよ、帰らんと、ねずみに踏まれんぞ。」
 と言って、笑いながら私は声を掛けた。
 何故、ねずみに踏まれるのか分からないが、「ねずみに踏まれないようにね」は、夜遅くまで働く同僚に声を掛けて帰るときの、日本中で昔から言われる慣用句なのだ。
 「ああ、Takiさん。どうしたんすか、こんな時間に?」
 私は、腕章を指差した。
 彼は直ぐに、「あぁ!」と、理解したようだ。
 夜勤管理当番は、年数回しか回ってこない役職者の持ち回りの仕事であり、組合員には無関係なのだ。
 彼は、この時間まで明日の打ち合わせの資料を作っていた。
 パテントにするデータをまとめて居たら、急にシミュレーションの計算間違いに気付いて、思っていた通りのストーリにならず、彼はあせっていた様だ。
 典型的なハマリパターンだった。
 そんな彼と、先日の上司の御通夜の話等をして雑談した。
 その上司は、私の直接の上司ではなくかなり上の方の人だった。
 話をした事も無かったし、顔もよく知らない。
 偶に、食堂で同期の友人から、
 「あの人がそうだよ。」
 と、言われて横顔を遠くから見た事が有る程度。
 ブルースウィリスに似ている事で有名だったが、間近で見た事が無いのでピンと来なかった。
 その人が48歳の若さで病死した。
 私の父も同じ年で亡くなっているので、物凄く身近に感じた。
 実は数年前にも、親しくしていた先輩がやはり38歳と若くして亡くなっている。
 三人とも同じ病気だ。
 その昔、二十七歳の信長は、「人生、五十年。」と言って天下統一への決意を示したそうだが、現代において寿命が延びたとは云え、人生を楽観視してはいけないと思う。
 三人とも、人生の終わりに居たとは思っても居なかっただろう。
 皆、道半ばで人生を取り上げられたのだ。
 何れも、残されたまだ若い家族達は、悲痛な面持ちであった。
 それは自分自身の事も含めてそう思う。
 上司の息子達はまだ中学生と小学生だった。
 遺影の写真は生え際から考えても、明らかにかなり昔の写真に思えた。
 こういった写真にはかなり修正が入るものだし、服装に適当な物が無い時には合成になったりする。
 父の時には家族はそれを嫌って、スナップ写真を使ってもらった。
 タバコを指に挟んで、薄ら笑いでこちらを向いているその写真は、生前の父そのものだった。
 上司の写真は、私の記憶の中のイメージとだいぶ違っていたが、何となくブルースウィリスに似ていなくも無かった。
 皮肉な事に、まじまじと彼の顔を見たのは、その時が初めてだった。
 
 そんな内容の事を相手の都合も考えず、十分ほど話した後、
 「早く、帰れよ。」
 と言い残して実験棟を後にした。
 「巡回中に、居眠りしないで下さいね。」
 と、帰りがけに後輩に言われたが、眠気は全く感じていなかった。
 建屋と建屋の隙間を歩きながら、ふと先ほどまで居た事務所の窓を見上げたが、電灯の明かりは消えていた。
 「あいつ、直ぐ帰ったのかな。」
 辺りに人気も無く、何となく違和感を感じたが、大して気にも留めず自分の事務所に帰ってきた。
 
 事務所に戻ってくるともういい時間だった。色々寄道した事も有って次の巡回時間は直ぐ回ってきた。
 この後二回ほど巡回したが特に何も起こらなかった。
 最後の巡回をほぼ終えると、早番の人たちがもう構内をうろつき始めていた。
 空は白み始め、彼方に見えるバイパスのオレンジの外灯と緑の看板が深い藍色の空に映えていた。
 私は、流石に眠気を感じ始めていた。
 薄っすら朝霧の掛かった構内を自分の事務所がある、事業所で一番奥の建屋へ足取り重く帰ってくると、その建屋の方から人が歩いてきた。
 こんな時間に建屋から出てくる人は珍しいと思った。
 風貌からそこそこの年齢の人だなと感じた。
 まだ薄暗くてはっきり顔が見えないが、きっと朝番の部署の上長だろうと思いすれ違いざまに、
 「・・・おはよう御座います。」
 と挨拶すると、
 「お勤めご苦労さん。」
 と、労われてそのまま振り向かず、構内へ歩いていった。
 あ、知っている顔だ、と思った。
 それ程親しくは無いが何度か顔を見た事が有る。名前は思い出せないけど・・・。
 私は階段を登り始めた所で、立ち止まり振り向いて、その姿が建屋の影に消えていくのをぼんやり眺めていた。
 
 事務所に帰ってきた私は、すぐさまニュースサイトをリロードした。
 日本は、やはりブラジルに負けていた。
 奇跡は起きなかった。当たり前だ、こんなもの元々奇跡と呼ばない。
 私はスポーツドリンクを買ってきて事務所で飲みながら、後片づけをしていた時、ふと気が付いた。

 ・・・・・・あの人は、御通夜で見た遺影の中の人だ。

 私は、自分の父がなくなった日の事を思い出していた。
 未明に臨終した遺体を霊柩車で教会へと運び、一人家に帰った私は、近所に挨拶に行かねばならなかった。
 私の実家の四軒隣の斜向かいに住む家族の所に挨拶に行った時、いつも家の前を掃除しているおばさんに会った。
 そのおばさんは父の訃報を聞いて、驚きを隠さなかった。

 「・・・おばさん、昨日の朝、貴方のお父さんに会ったわよ。」

 朝いつもどおり、家の前を掃除していたら、父が家の前を通勤姿で通り過ぎたと言うのだ。
 私の一家は父の病気の事は近所には内緒にしていた。
 だから、おばさんは、
 「随分久しぶりですね。」
 と声を掛けたそうだ。そうすると、父はにっこり笑って会釈しながら通り過ぎたらしい。
 しかし、そんな筈無いのだ。
 その時間、私は病院で死の床に居る父の側でずっと寝ていたのだから。
 
 私は三階の事務所の窓から、すっかり夜が明けた事業所をぼんやり眺めていた。
 夜通し降っていた雨はもう止んでいた。
 長い一日が終わり、新しい一日が始まる。
 
 私は重い体を引きずるように家に帰ると、せっかく得た代休を丸半日、寝床でまどろんで過ごした。
 夢の様に過ぎ去った、夜勤の一夜を回想しながら、泥の様に眠った――・・・・・・。

※注・・・これはほぼ全てフィクションでは無い。

「共感覚と霊視」 2006.4.17

 共感覚に興味がある。
 よくラリってる奴を例えた表現で、
 「音が見える」
 って言うのがあるが、実際に薬無しでそれが常態化したものが共感覚らしい。
 ある刺激に対して、本来とは別の感覚までも刺激される状態で、
 例えば、
 「音を聞くと目に色が見える」
 とか、
 「あるものを食べると同じ音が聞こえるとか」
 とか、
 「あるものを見ると、酸っぱい味がする」
 など、色々あるらしい。
 と言う事は、
 「うなぎを食べると、梅干が見える」
 なんかもあるんだろうか・・・
 「赤い色を見ると、興奮して鼻時が出る」
 なんて言うのも共感覚なんだろうかと、想像が膨らむ。

 実際、LSDなどではこの共感覚が引き起こせる場合も有るらしいが、幻覚とは異なり、正常な精神状態であっても、何百人かに一人はこのような感覚をもっており、本人が申告しない限り他人がそれを知る事は無いので、気付かないでこの感覚に慣れきってしまっている人も多いと聞く。
 また、これによって本人が不快を感じるような事はあまり無く、むしろ心地良いらしい。

 自分に無いから、凄く気になる。(特定の能力が有るか無いかは簡単なテストで見分けられる。少なくとも私には文字に色が付く共感覚は無かった。)

 一部の人が特殊な感覚を持つ事によって、特殊な能力を持つ事は十分ありえるように思える。
 磁気的な場の乱れを、視覚化した霊能力者とか。(逆に言えば、霊魂とは何の関係もない)
 視覚情報以外から得た共感覚をキャンバスを通して描写した画家など。

 幾つかの、共感感覚者として挙げられている人の中には、医者、小説家、物理学者など、タレントのある人が多い。

 彼らの具体例にはよく、文字と色の一致が出てくるが、それを読んでいると子供頃の体験が思い出される。

 私は子供の頃、よく文字が浮き出て見えた。
 小学生の頃くらいに「小学一年生」とか、ああ言う雑誌をよく買って読んでいた。この表紙のブロック体のロゴが青色に赤色縁だったりするとよく頻繁にその文字が揺れた。集中してその文字を見ている時よりも、そこから焦点を少しずらした場所を見ている時の方が、激しく揺れ動いた。
 しかも、ただ揺れると言うよりは、紙面から浮き出て踊るようなイメージで、よく目を擦って凝視したものだった。
 これは、共感覚では無いように思える、多分軽い癲癇のような物ではないかと思うのだが、実際、共感覚も子供の頃、特に幼児は多く共感覚を持っているらしい。確かに感覚器官が十分に発達していない幼児では、刺激に対して適切に情報を処理できないだろうから、単一の刺激を複数の感覚として認識してしまうのだろうと推測は出来る。

 また、大人になると様々な超常的感覚が失われる事はしばしば言われるが、脳内の感覚と情報の処理が発達するにつれて、共感覚が失われる事との暗示は、何気に感慨深い。

 「想像力」や「新鮮で純粋な感動」への憧れは、私にとって重要な人生のエッセンスだが(だって、わくわくするでしょ)、薬物等と言う本末転倒的に人生を失ってしまうものに頼る事無く、共感覚等とゆう甘美な魅力にあふれた資質を持つ事に憧れを抱いてしまう事は、無いものねだりの浅はかな子供染みた駄々の様だと自戒するが、現実に世界にこう言った不思議な物が存在する事自体、ファンタジックで、私にとってはキラキラとした世界を垣間見る気がする。

 ・・・でも、あったらあったで不幸な事もあるかも知れないけどね。「夕闇」の「クルミ」みたいに。

「ID論問題に見る科学の拠り所」 2006.3.4

 米ドラマ「フレンズ」で、元ホームレスのフィービーは、ダーウィンを信奉する科学者(後の大学教授)のロスと、進化論について議論するシーンが有る。
 フィービーがダーウィンの進化論を信じていないと言った所、ロスが真っ向から論破しようとする。フィービーは人間は神様が創り、化石は宇宙人が置いてった物で、進化論は可能性の一つであり、押し付けられるのはおかしいと主張し、科学的事実と根拠からロスは進化論は唯一の真実だと主張する。
 結局、ロスはフィービーに、「進化論が間違っている可能性」を否定できず、フィービーにやり込められる形で勝敗が決する。
 単純に理屈っぽいロスが、フィービーの饒舌に丸め込まれる姿が面白いシーンなのだが、これには若干、アメリカの現状を皮肉っている製作者の意図が感じられる。
 
 少し前になるが、ID論と言うものが話題になった事があった。現在でも、進行している事ではあるが、アメリカではキリスト教原理主義が中心になって、学校教育で進化論と共にID論を学ばせるようとする動きがある。
 ID論とは、"Intelligent design"知的計画論と訳され、生物や人間の創造は「高度な知性」によるデザインによるものであるとする考え方である。「Star Treck Next Generation」や「マクロス」等にも同様のアイデアが含まれたエピソードがあり、他にも世の中には無数に存在する。それらはあくまでSFとして、想像力を掻き立てるモチーフであり、宗教とは何の関係もない、根拠の存在しない空想科学である。
 しかし、ID論は、そもそも宗教的立場から展開されている物で、その中で唯一の創造主たる"神"の記述を、単に"高度な知的生命体"に置き換えたものである。
 基本的な立場から言って、高度な知的生命体が居たとして、それが今の人類の姿を設計したとしても、長い年月をかけて、突然変異と自然淘汰によって種が分化と進化した結果、人類が出現しても、今の人類が別の存在に変わるわけではない。その事は多くの人間にとって実は大きな問題ではないかもしれない。しかし、教育の現場でその事を一般化して教える事には本質的な意味で大きな誤りがある。

 教育の意味を真剣に考えてみると、行き当たるのは、「物事や世界をより良く理解し、適切に処理する」という事に尽きると思う。本当の大学教育の、特に博士課程では、「物事がどうしてそうなるのか突き詰めて考え、一貫した理論を形成する事」が最も求められる事である。この事は、普段当たり前の様に使っているPCに当てはめて考えると分かりやすい。

 PCを使うのに、PCの中で起こっている事を正確に理解する必要は無い。しかし、エクセルを使う時に、複雑な表計算の結果が上手く働かない理由を考えた時、エクセルがどのように計算を処理しているか知っていると、何故間違いが起こるのか理論立てて考えそして修正する事が出来る。
 また、記録型マクロを使う事が出来ても、ほんの少しファイルのフォームが狂っているだけで、正確に働かす事が出来ないが、どこは変えても良くて、どこを変えてはいけないかは、プログラムの知識があれば直ぐに判断できる事であり、更にはVBAを使ってフレキシビリティのあるマクロに書き換えることも可能となる。
(余談だが、エクセルは複雑でなくても間違いを犯す。例えば=-2^2を計算させてみると4という答えが出る。これは一見すると間違いである。=-(-2)^2ではどうか?非常に違和感があるが答えは、4である。では、=1-2^2ではどうだろう、答えは-3となる。これは正しい。良く見るとこれらは矛盾している。そしてこれらの間違いを我々は頻繁に犯している。経験として同様の問題を回避する事は可能である。しかしエクセルがoperatorをどういう順序で処理しているかを知っていれば(それは一般的な算数と少し違う)、この種のあらゆる間違いを回避する事が出来る。後述する本質的な教育とは1を聞いて10を知る物で無くてはならない)
 この事は一般化して考える事が出来る。サルは、自動販売機のボタンを押すと、缶ジュースが出てくる事は知っているが、自動販売機の中で何が起こっているか知らない。電源プラグが差し込まれていないだけでも、その事に気付かないだろうし、仮にプラグを差し込むと動く事に気付いたとしても、何故電気が必要なのかは理解できない。一方、人間はサイコロの目の数を知らないが、それが1/6の確率で発生する事を知っている。コントロールする事はできないが、何故コントロールできないのか、どの程度コントロールできるのか理屈を理解している。これらは何が違うのだろうか?
 そう、教育には本質的な教育と職能教育があるのだ。
 日本では特にこれを分けて考えない傾向があるが、本質的な教育とは「何故?(WHY)」に答える物だ、それはより良く現象を理解する為のもので、前述したように発展性と進歩性がある。職能教育は「どうやって?(HOW)」を伝えるもので、持続の教育であり、広がりはあるが発展性に乏しい。
 ダーウィンの進化論は「何故?」に答える教育である。人は、何故化石の中に、今地球上で見た事が無い生物が存在しているのかを進化論から知る事が出来るし、地域によって分布する生物が異なる理由を推測する事が出来る。
 ID論は、「何故?」に答えているだろうか?寧ろ「どうやって?」に答えているだけである。
 「人はどうやって出来たのか?」
 「『知的生命体(又は神)』によってそうなるように作られた。」
 「何故、そうしたのか?」
 真意を知る事は出来ないかもしれない。仮に、何らかの宗教的、道徳的な説明を行ったとしても、その根拠や証拠は明確に出来ないだろう。
 という事は、そういう事を知っても、何ら発展的なものの見方に結びつかないだけでなく、容易く矛盾に遭遇して自己解決できない、処理できない人間を生むだけに陥ってしまう。そんな事を教えても意味が無いのである。
 確かに進化論とて、全てを説明できるものでは無いかも知れないが、ID論は遥かに底が浅いのである。そもそも、自然科学では無いのだから。
 自然科学でなければ教えてはいけないという事では無い。一つの非科学的な人類発祥の仮説の一つとして、"「スパゲッティ・モンスター」が人類を作った"という説と共に雑学知識として教える事には何の問題も無いのだ。こう言う事を信じている人達も居る事を知る事には意味がある。ただ、単位を持って教育しテストにまで出す必要は無いのである。それを、宗教教育や道徳教育に結び付けて行く事は、子供達にとっては誤解や混乱の元となる危険性が高い。大人でさえ怪しいくらいなのだから。

 対岸の火事と思っていると、日本でも既におかしな教育が始まっている事に気付かない。
 道徳教育の一環で、水の結晶の出来方と言葉について言及する教材を使っている小学生の教師や推奨する教育団体が存在する事に驚いた。
 TOSS(教育技術法則化運動)ランドというサイトは、非営利で教師に役立つ教育技術・指導法を開発しているそうだが、ここで解説していた道徳教育の一つに、某氏の著書を教材に子供に綺麗な言葉を使わせようとする教育法が紹介され、その中で、「水の結晶は言葉を理解する。汚い言葉を言われたり見せられた水は綺麗な結晶を作らない。人体の70%以上が水である。言葉は水に影響を与えるから当然人体にも影響を与える。綺麗な言葉を使いなさい。」と云う趣旨の内容が書かれていた。実際に活用した教師からのコメントもあった。このページは、雑誌新聞により批判を受けた為既に消滅した様だが、目を覆いたくなるような惨状である。
 他にも、日本は、「マイナスイオン」「ポリウォータ」等の間違い科学・非科学的なブームがあった(似たような物は今も続いている)それらは全て、間違いといわないが、過分に誤解を含んで広まった。実際に私が大学の授業で紹介された物もある。しかし、科学離れの子供が増えている昨今、そのような、如何わしいものに対して十分抵抗力を持って、冷静に判断できる成人を育てる事が出来るかどうか憂慮すべき状況にある。教育者に限らない、今の大人は教育に対して、十分無責任である事を自覚すべきだ。
 これからの世界も、日本の社会も、本当に子供の教育に掛かっているのだから。
 

「信用が借金に変わる日」 2006.1.21

 世間ではライブドア(以下LD)は既に終わったものとして、その功罪についてあれこれ批評されて居る訳だが、ホリエモンの最大の功労が、誰もが知っていながらやらなかった、時間外取引等、敢えて実践で指摘する事により株式市場における法の問題点を明らかにしてきたとする向きがある。
 日本はこれまで欧州型の事前法規制を進めてきた訳だが、これは見かけ上その様に見えるだけで、実際には経済上のルールや問題点を欧米から輸入して進めてきただけの事である。
 米型の法規制は事後規制、つまり問題が起こった時にStock marketが信用をなくす事無く健全に維持できるかを考えて、ルールーを書き足すという傾向がある。とりあえず最初にやった奴が偉いというか、悪くないという建設的な捉え方がされているのだろう。だから、ある意味最も進んだ体制になっているし、ロバストなルール作りが成されているのである。
 日本は、あくまで日本的な国民風土の基に米型システムがただ乗っかっているだけであるから、必ずアメリカよりも一時代遅れている。「それはまあ、そこまでしなくても」とか、「叩いたら必ず叩きかえされるから」みたいに、無理にやらなくても上手く行く方法を皆で結託してなあなあにやってしまう(はっきり文言を取り交わすと談合。特許なんかも海外と国内ではものすごく温度差が有る気がする)。当然の事ながら、法律や規制はいきなり施行されたりしない。先ず、切り込み隊長のアメリカがやってみて、上手く行ったら、うちでもやろうかと言う事になり、委員会が出来て、政治的な駆け引きの結果、国会を通って一年くらい公示してから施行と、此処までに最低3年位はずれている筈。
 海外のメディアがこぞってホリエモンを評価するのも、海外投資家にとって自分の所のルールが閉鎖的な日本でも通用しないと困るからなのだろう。  だから、欧米の真似して、遅れてる日本でやんちゃをやって儲けても、あんまり日本人は褒めてくれないし、ずるいと思ってしまう。そもそも、村上やホリエモンが自ら言う、「外資ハゲタカファンドに食い物にされない為の日本株式市場の問題点の指摘」は詭弁で、要するに、「無邪気に儲けて何が悪い、別に悪い事してないだろうが?知ったか爺ども」の本音に対する言い訳だろうと思う。
 LDのような急進派は、どこの業界にも居るが(ただ目立ってただけで・・・)、一般的に言って、急進派は「攻め」は強いが「守り」はめっぽう弱い。保守派は攻められている時は団結して耐えて、虎視眈々と反撃の機会を狙っているものである。老害たる日枝の手のひらの返しようは、正に保守派(こいつも元は過激な急進派だった)の典型的反応である。しかし、彼も「ざまあミロ」とは言ってられないだろう。なにせ、(堀江を除けば)ライブドア株の筆頭株主はフジ、株主総会で株主から、この大損害の責任を追及されるのは、彼ら取締役だからだ。そんな事もあってか、不祥事を理由にLDに売却許可を要求しているようだが(勝手には売れない約束らしい)それでも損は損、責任は免れられない。
 将棋の格言で言うところの、「勝っている時ほど慎重であれ」は、彼ら急進派の様に攻めまくっていなければ潰れてしまう集団には、忙しすぎて心のゆとりがないのか実現しづらい様に思う。メールのやり取りなんかも押収されてしまう時点で、油断があったという事だ。そりゃまあ、月一でM&Aやってれば色々ずさんな所は出てくるし、無理もたたるよなあ。
(※ここで明確に分けて考えたいのは、今回の強制捜査の本当の意味である。粉飾決済はかなり以前から、一般に開示している決算書(本当は赤字なのに黒字)の内容について強い疑問を持たれており、情報のリークとは関係の無い次元にあると思われる。関係者からの内部告発があったかどうかは、LD証券に絡む「風説の流布」に関してであり、この点については検察も事前に抑えていたかどうかは疑わしい。だが、この点が突破口になって本丸である本体の粉飾決済に関する証拠を押収できた可能性が高く、検察の本当の狙いはそこであると見える。では、その情報リークがどこから出たのか?このような財務状況を認識した上で、第三者割当増資を行ったフジ経営陣は株主代表訴訟の対象と成り得る。ヒューザに絡む自民党の繋がり疑惑の煙幕説も、広島球団買収における武部幹事長との繋がりから考えて火の粉を被る危険性があったと見るべきだろう(内部での複雑な足の引っ張りあいはあるかも知れないけど)。そう考えると、元社員の自殺は最も謎が深い気がする・・・)
 しかし、今回の暴落の本質的な原因は、強制捜査そのものよりも、マネックス証券等がLD株の担保評価額を0にした事が直接の原因とされている。意図的に下げを仕掛けた事によって、外資ファンドがいっせいに反応して、多量売りに出た為、仕掛け人(信用売りに出ていた奴)はかなり儲けたらしいとか・・・。
 かくして、マザーズのLD株は連日ストップ安、IT関連も激しく売られているが、これまでじりじり上昇してきた東証平均株価も、狼狽売りもあり二日続落、1000円近く下がった。当然、安値感から強制捜査三日目には反発したが、LD株は週明けにリバウンドが無ければ、まだまだ下がる可能性が高い。月末を待たずに紙切れの様になるかもしれない。
 中でも特に大変なのは信用取引でLD株を買っているデイトレーダなのだろう。信用買いを入れていた奴はいうに及ばず、追証の金を別の株を売って工面しなくてはならない為に、ITと関係ない株価まで下がっている様子だ。換金できる物を持たない個人投資家は借金が膨らんでいくだけ・・・。
 こういう時に練炭・樹海ツアー関連銘柄を本気で買う不謹慎な奴は居ないと思うが、LD株ホルダーの40%と言われる個人投資家へのショックは自己責任とは云え、本人にも証券市場にとっても小さくないだろう。
 ご愁傷様、ホルダー平均400万円を超える痛すぎる勉強。

「夜市」 2005.12.18

 角川書店の本は、帯が大げさで逆に興醒めな気がする。
 映画もそう。広告の煽り方を見ていると、
 「JAROに訴えられてもおかしくない」
と、映画を見終わった後に思える程の酷い物もある。

 最近は角川の事が話題にならなくなったが、角川家没落三事件から10年余、古い体質は消えつつあるのだろうか、それとも既に醸成された企業パラダイムはそんな簡単に突き崩せる物では無いのだろうか。
 当時を振り返ると、改めて惨状の凄まじさに感嘆する。

 そもそも、会社の金でコカインが買えること自体、非常識な企業の有り様を露呈していたと言えるが、それだけではない。
 角川書店の出していた漫画雑誌が、ある日突然、全部連載がなくなって、後日全然別の雑誌に全部載っているという、読者を蔑ろにした異常事態が発生したり、角川分裂事件であおりを食らった作家や編集者は週刊誌等にその異常な内情を暴露していた。
 購読していた読者は、続きを読むために、移転先の雑誌と元の雑誌両方を講読させられる羽目になり、当然の事ながら次第に離れていった。
 結局、薬中の兄が入獄し、オタクの弟が呼び戻され、今の体制になったようだが、最近、刑期を終えた兄(仮釈放)が独自に開いた事務所に戻り、会長ととして、自らも本も出しているのが不気味だ。

 同族経営

 10年経っても、無くなる事は無い。
 先のダイエー、西武鉄道(国土計画)のみならず、その他大企業と呼ばれるものにも驚くほど多くの同様の形態が見られる。
 それは本質的に良い面と悪い面を持っていると言わざる終えないが、キリンの様に上場せずに徹底的な情報開示を行う事で上手く行っている同族経営企業は珍しいのではないだろうか。
 多くは、同族の結束力が諸刃の剣となり、自らのコンプライアンスにメスが入らない隠蔽体質を多かれ少なかれ持っており、それが上手く行っている間は露呈せずに、上手く行かなくなった途端に露呈するだけの事の様に思う。
 つまり、教訓は生かされにくい、と言う事だろう。

 少し前になるのだが、その角川書店から出版されている、恒川光太郎の「夜市」を読んだ。
 帯には、「日本ホラー小説大賞史上最高傑作」と書いてある。
 オマケに、荒俣が「泣いた」、高橋克彦が「絶対に思いつかない展開」、林真理子が「文句なし」と、書いてある。
 最後に、「全選考委員激賞!」と書いてある。

 「そんな訳ないやろ」と、言いたい。(しかもこの面子が揃いも揃って)

 一旦は、平積みに戻したのだが、装丁の美しさに惹かれ購入した。
 
 正直、私にとって夜市は、傑作と呼ばれるほど面白い「ホラー」では無かった。
 そもそも、ホラー小説に応募した所に何か違和感を感じる所だが、一般的な感覚と応募の動機とはかなりのズレが有っても不思議は無い。
 これは、「本当は●●賞に出したいが、●●賞の方が通りそうなので、そちらに出した」とか、選考側も、「これは、此処では難しいけど、●●だったらすんなり通るんだけど、もうちょっと考えて出して欲しいな」って言う事があるらしいので仕方の無いところか。
 ちなみに、過去の大賞受賞作には「パラサイト・イヴ」とか、「黒い家」なんかが有る。
 
 もう少し詳しく書くと、「違和感」は主にホラーとは思えないくらい、ファンタジックな内容をしている事にある。
 村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」をホラーとは呼べないだろう。同じような事だ。

 主人公が、かつて幼少の頃に迷い込んだ「夜市」には不思議な物が沢山売られていた。そして、少年はそこで、あるものを得て、大切な物を失った。大人になった彼は、ある日、自分の意思で「夜市」出かけていく、失ったものを再び取り戻す為に。

 ・・・・・・こんな感じのストーリで、岬の森で開かれる夜市の描写は青白く、非常に幻想的で美しい。
 恐らく、映画化されたりするのだろう(角川だし)。

 私は、この手のファンタジックな内容には非常に弱い。
 はっきり言って大好きな類の小説ではあるが、帯に書かれる程のモノかと言われると、明らかに疑問が残る。
 教科書に載る位に綺麗な物語りかもしれないが(教科書にこんなバッドエンドが載るか疑問だが)、ホラーとしての作品評価や完成度は決して高いとは言えない。
 せめて帯が付いてなければ、また「奇跡のエンディング」とか書かなければ、普通に小説として素晴らしい読後感が得られ、ホラーとしての本作品に何の疑問も沸かなかったのに・・・。
 
 美しさと同時に、この物語りには兄弟の愛憎がテーマとして絡んでいる。
 最後の展開は「鋼の」に似ている気がするし、「義経」の奔放な弟に対する、流人時代の頼朝を思わせる所もある。
 そして、兄を支えて尽くしてきた弟を、我が子可愛さに、放逐した兄・角川春樹と、名声を掴んだ主人公とがオーバーラップし、二人とも幸せを得られなかった事に思い及ぶ。
 この兄弟の悲しさが、幻想的な話を現実につなぎとめる楔のような役割を果たし、ただの夢物語に終わらず、作品を引き締めていると私は感じた。

 一方、同時収録されている「風の古道」は、素晴らしかった。
 これも、ホラーと言う意味ではなく、純粋に物語りとして完成度が高いと言う意味だ。
 
 「夜市」も「風の古道」も、文章表現力は非常に高く、無駄が無い。
 読みやすいし、読ませる魅力も十分だ。
 しかし、「夜市」は作品の幻想性や、一夜の出来事をドラマチックに構成してある分、人間が若干、軽めになっている。
 これに対して「風の」では登場人物の人生が重く、設定のリアリティが非常に高い。
 ありえない物に、リアリティを与えるさりげない表現が、読む者の想像力を非常に高め、主人公と自分を重ねて、物語りに感情移入できるようになっている。
 そして、身近な友人の死と、生き続ける人の有り様に、流転の無常と、一人の人生の中にある様々なドラマを感じる事が出来る。
 設定も、人物も、展開も全て、納得できるし、何より郷愁を誘う古道の描写は、私自身の幼少の記憶と相まって、明確に作品をイメージでき強いインパクトを受けた。
 また、結末と最後の文章には、非常に心打たれた。

 確かにこれは成長の物語りではない、克服もしない
 しかし、大人になったこの主人公の少年と同じように、私に忘れていた何かを思い出させ、新たに何かを刻み付けた。
 人は皆、迷路の中の迷子だ。
 私は見ることの無かった他の風景に思いを巡らし、古道の意味と人生を重ね合わせながら眠りに落ちた。

「凋落する量販店」 2005.11.17

 講演会や講座に出席すると、最近頻繁に見かけるようになったのはICレコーダ。
 かつて、ボイスレコーダと呼ばれていたのは、磁気テープやMDを記録媒体にしたものだった。しかし、現在はこれらはなりを潜め、電気店で所狭しと並んでいるのは、内臓フラッシュメモリを持ち、吸出し無しに総録音時間100時間を越えるICレコーダ達だ。

 事情があって、このボイスレコーダを購入する事になり、色々情報収集して選定した結果、OLYMPUSのV-20を買った。\14,500也。
 実は、現在はこの後継機のV-40(521MB:約\17,000)、V-50(1GB:約\25,000)が出ており、色々改善されている。どうしても後継機の販売日前に買わざるおえなかったのが残念だがだが、それでもこのV-20はコストパフォーマンスは非常に高い。後継機が出るまでは価格コムで人気No.1だった。
 実際使ってみて、文句なしの出来。何故、オリンパス?と最初は思ったけど、使い勝手や、機能は他社製品と比べて全然遜色なく、むしろ総合では高いポテンシャルを持っていると言えるだろう。
 欲を言えば、MP3を扱えるようにして欲しかった事と、容量がもう少し欲しい事、プレーヤとして聞く時に、音楽用に音質やプレイモードを改善できるようにして欲しかった事だ。しかしそれらは全て後継機で改善されている。
 満足してる点は、USBマスストレージとして使える事、電池一本で使える事、もちろん市販の充電池(ニッケル水素単四)でも電圧の問題なく長時間使用できる。音楽プレーヤとして使える事、声を録音する上では非常にクリアでよく拾える事等、多々有る。評価では、本体を触るとノイズが激しい等の書き込みがったが、実際使ってみて、想像していたような耳を劈くほどではなく、安心した。それに置いて使えば全く問題ない。
 また、別売りマイクを薦める声が多く、私も5,000円もする大きめのマイクを買ってしまったが、会議にも使えると書いてあったくせに指向性があり、逆に本体内蔵のマイクで高感度設定にしたら、指向性は殆ど無く、かなり小さな声まで鮮明に聞き取れた。インタビューなどの直接本人から声を拾おうとしたら、ノイズが少ない分マイクは有効だがそれ以外ではむしろ感度を下げるだけなので、会議では絶対お勧めしない。
 今は、通勤途上(駐車場から歩かんといかん)ではプレーヤとして、会社では会議の録音用として、プライベートでは、思いついたアイデアの記録や、調べごとのメモとして大活躍しており(ツインピークスのクーパ捜査官の気分)、実際にアイテムとして実用性が非常に高く、生活の一部になっており、良い買い物だったと思う。

 ところで今回、購入に当たり、色々情報を集めて量販店に行った訳だが、某量販店の店員は本当に腹だだしい。パートのおばちゃんばっかりだし、客の質問に何一つ満足に答えられないわ、納期回答も出来ないわ、オマケに高いわ、態度悪いわ良い事なし。
 価格交渉しようにも、ろくに商談できる人間が出てこない。幾ら、インターネットの価格表見せても「そんなものと一緒にされても困る」、「嫌なら買わなきゃ良いじゃん」的な無責任な発言しか出ないし、暖簾に腕押しって感じ。
 それで、値引きする気も無いのに、「価格は係員に問い合わせ下さい」とか書いてる。聞くとわざとらしく計算機出して、計算してる。で、出てきたのが500円引き。大そうに原価収支でも計算してるのかと思えば、何の事はない、値札の右端に書いてある数字を特売期間の日付四桁で割って、100掛けてるだけ。これで、出た数字が「問い合わせの時に出す値段」だとさ、要するに、値引きする気が最初からない。スーパと一緒。こういう、客を小馬鹿にした態度が余計に、怒りを買って消費者離れに繋がるのが分からんかね。
 しょうがないから向かいのMドリ電化行ったら、遥かに安い値段で売ってて、情けなくなった。他社より必ず安いとか嘘ばっかり、価格調査が聞いてあきれる。

 上の例を見ても分かるが、いま全体的に小売業のサービス・レベルは低下の一途をたどっている。
 特に上の某量販店は酷い、これは売り上げが家電量販最大手でありながら、6000人もいる社員の平均年収が300万円台って言うところから推して知るべし。実際、これは業界ではかなり問題になっているらしい、それでアノ値段なんだからどうなってるんだと言いたい。
 また、ここは4年前に価格の広告表示で虚偽記載があり、公正取引委員会から警告を受けている。他店よりも10%以上安いと広告に書きながら実際は安くなかったというやっぱり消費者を馬鹿にした広告が原因だ。
 昔、日本橋で足を棒にして家電製品を値切りまくって培った商談テクニックははっきり言って、量販店には迷惑なだけらしい。
 量販店では、基本的に商談せず、提供価格で買ってもらって、サービスはポイントでやりますから、値切られると販売員が対応できないんでやめてね、その方が値切る手間も省けるでしょう?とでも言いたげな。

 はっきり言って、量販店は高い。在庫費や販売員などの人件費、販売店の維持費など、通販に比べると明らかに不利だ。じゃ、量販店のメリットって何よ、って思う。良く考えると、あんまり無いんだよね。その場取引の安心感とか、即納とか、店頭値引きとか思いつくけど、今日日、生ものじゃあるまいし、家電通販で問題が起こった経験は一回も無い。
 逆に、量販店で物見て買ってきたって、使って3ヶ月でHubが壊れたなんて事もあった(当然、取替えに行ったけど)。即納っていっても、そりゃ欲しいモンがあればその場で買えるからいいけど、取り寄せになったら、下手したら通販より遅い事だってある。送料だって、その分勘案して価格比較してるわけだし。
 特に、新型の入手となると、量販店でも結構、発売日をずれ込む。某量販店では、発売日に合わせて入手できるように早めに予約しようとしたらあっさり断られた。基本的に、めんどくさい事は受け付けないつもりらしい。
 ネットでちょっと検索すると、この量販店のへの苦情や、店員への不満は山ほど見つかる。色々と黒い噂が絶えないが、その真偽は兎も角として、気分良く電気製品の買い物したいなら、店員がちゃんとこちらの質問や、希望に答えられる人間のいる店で、色々情報を聞き出しながら買いたい。
 計算機を叩くだけなら小学生でも出来るだろう。

 ちなみにドイツでは、スーパでも、チーズ売り場やソーセージ売り場などの前には専門の販売員が居て色々とサービスをしてくれたりする。
 このサービスと言うのは、客と色々話しながら、量の相談に乗ってくれたり、料理に合った商品を教えてくれたりするのだ(17時になったらさくって帰っちゃうけどね)。
 ドイツではコンビニが無く替わりにガソリンスタンドがコンビニをかねているが、そんな所でも、挨拶したり話したりしないと買い物が成り立たない。
 本来、物の取引とはそういう物だ。  それが嫌なら、通販するか、自動販売機で買い物すればいいんだ。ポイントなんかいいから、その場でその分値引けバカモノ!

「遺伝と模倣」 2005.11.9

 最近、記憶と遺伝について調べていたら、文化伝播における遺伝性についての記述を良く目にした。
 模倣子(ミーム)は15年以上前から雑誌や漫画、小説にたびたび現れる概念である。

 人は生まれながらに資質を持っている。
 4種類の塩基の三つの組み合わせによって作られるコドンが20種類のアミノ酸を示し、その配列によってたんぱく質やその構造を形成する仕組みが、その資質を記録している。その塩基配列の意味成すものが遺伝子(gene)である。

 しかし、逆に考えると、人は遺伝子がより長く存続する為に、その資質を持たされているだけだとする考え方も有る。つまり、遺伝子が自己を複製し増殖するためだけの都合の良い機能を持った道具が「人間」という存在と言うわけだ。つまるところ進化は、遺伝子が自己複製していく過程に過ぎないのだと。

 オックスフォード大学の生物学者リチャード・ドーキンス博士の著書「利己的な遺伝子(1976年)」では、このような考え方の一般性について展開し、その中に「模倣子(meme:ミーム)」を提案した。
 実の所、この考え方には矛盾点も多い。しかし、ミームについては、現在のメディア拡大による情報氾濫と淘汰を理解する上で、重要な指針を与えた。

 遺伝子が存続のために都合の良い人間を選択・形成するように、ミームも様々な形態を選択・形成すると考えると、例えば、ミームが文化を形成し、維持していると捉える事が出来る。

 映画の世界には黒沢監督の遺伝子を持つ映画が沢山存在する。それは、ただ似ていると言うだけでなく様々な意味でその映画が黒澤映画のエッセンスを模倣しているからである。それらがミームである。

 機械式計算機を発展させて、ソフトとハードの概念を作り出したノイマンは、ノイマン型コンピュータのミームを世に送り出した。今日、我々が使用する全てのPCはこのノイマンの「ソフトとハードの概念」を継承するミームを保有している。

 他にも、ありとあらゆる文化的な継承にはミームが介在している、ミームは人の脳から脳へと伝播し、その過程で様々な要素を組み込み、時にそれを捨てる。伝播はメディア(媒体:オーラル、活字、ネット、放送、etc.)によってなされ、その環境も制約と言う形でミームの存続に影響を与える。

 さて、フリゲの世界なんかにも、確かにミームが存在するようだ。
 ただ、フリゲの場合は、ミームの流入元が、商業ベースの物とか、同人だったりする事が多い。いずれは、フリゲの中でのミームの発生が主流になると、有名なタイトルのフリゲから、様々な要素を模倣して、新たなフリゲが生まれて来る事になるのだろうか。

 定型化したキャラクタも、典型的ストーリ展開も、それが一般化するのにはちゃんと理由が存在するし、それこそミームであり、文化であるとも言える。
 無数に生み出されるアイデア自体ミームを含んでいる、それが様々な場面で発現しては、淘汰され、いつの間にか生命力に優れたアイデアの一要素のみが一人歩きを始めて、新たなミームとなり伝播されていく。

 しかし、挑戦的なクリエイター達は敢えて、その型を破り自らが新たな世界を築こうと奮闘する。何故だろうか?
 自分自身の克己心や成長、飽きやすく常に新しい刺激を求めるプレーヤへ価値観の提言等、幾らでも理由は見つかるだろう。しかし、マクロな視点に立ち「フリーゲームというミーム」の存続という観点から考えると、こうも考えられる。より広く、より長く、世界に存在し続ける為に、多様化と喪失、つまりパラダイムシフトを起こす事を、ミームがクリエイター達に求めているから、なのかも知れない。

 そして、我々はフリーゲーム自体が何かに変わって行くのを、目の当たりにするのかも知れない。

「著作権とラジオ」 2005.10.15

 私は好くラジオを聴いている。

 特に、車にはMDもCDも付いているが、乗っている時は殆どずっとラジオである。
 しかも、FMラジオは殆ど聞かない。
 買い物へ行く時たまに”Suntory Waiting Bar 'AVANTI'”を聞く位だ。
 音楽なんか、もう飽きた。

 とか、カッコいい事を言ってみたいが、実の所今の音楽に全く疎いだけなのだ。
 CDなんか何年も買ってないし、CDTVなんか眠くて見てられない。

 そんな訳で、おじさんはAM放送オンリー。
 高校生時代は、深夜放送の録音(デーモン小暮のオールナイト日本等、多数、現在も保有)に余念の無いラジオ少年だった私は、枝雀十八番のテープと深夜放送を聴きながら眠るのが毎日の日課であった。
 夏休み等の長期の休みには、大阪名物、毎日放送・浜村淳の映画紹介で、最後の落ちまで喋ってしまうのを、腹を抱えながら聞く事を楽しみにしていた。

注!:正確には、最後までは喋っていない、「・・・さて、この後どうなるかは、映画を見てのお楽しみです。」というので、実際に映画を見に行くと、浜村淳の喋った後は、ほぼエンドロールのみで、椅子からずり落ちそうになった事もある。ちなみに、試写会で氏と握手した時は、感動で震えた!

 本人は意識していないが、私はよく周りから口が達者だと誤解され迷惑している。
 もしそう感じられるとしたら、それはラジオのお陰だと言い切れる。
 同じ放送をテープで暗唱出来る位聞き込んだりした経験が、脊髄反射で喋れるまでに至った所以である。
 それでも、大学生の間は、ご多聞に漏れず熱心にレンタルCD屋に通って、singleをテープに落として聞いていた。(面白い事に、中学生の頃は洋楽に狂っていた。こういうのは周期的に巡っているのだろうか・・・)
 そして、今はNHK第一とか第二とか。
 主に、通勤で聞くわけだが、土日の遠出で、「地球ラジオ」を聞くのも意外に楽しい。
 日曜と言えばもう終わってしまったが、ラジオコメディ「みんな大好き」は本当に良い番組だった。
 中村メイコ、小松政夫、藤村俊二とそうそうたるメンバーで、最近露出の少ない彼らの老麗たる声の演技は、能の様に無駄が無く、人間国宝として保存しても良いくらいだった。
 特に小松の親分の時折出るまじめな語りは、意外と心に染みたものだった(私の心が壊れているだけかも知れないが・・・)。
 とある理由で金曜、日曜の夜に高速を走る事が多かった頃は、こんなラジオドラマや、怪談落語、教育講座を聞く事が寂しい一人運転を慰めてくれたものだ。

 で、通勤時のNHK第一に戻るが、朝は「ラジオあさいちばん」これ意外ありえない、というかこれ以外やってない。
 ニュースアップとワールドリポートは、話題のトピックスについて、大学の先生や、専門の記者が詳しく解説してくれる(しかも電話口で話してる)。
 「クローズアップ現代」とか「明日を読む」のラジオ版。生で流す事も多く、時には、緊張した解説者が無言になる痛々しいハプニングも有り、放送事故になるかと思いきや、代わりににアナウンサーが、自分で質問して、自分で答えるなんていう、ウルトラCを聞ける事もある。
 そんな時は、「なんだ、解説者いらねーじゃん」とか「哲子の部屋か」と私も一人で車の中、祭り状態である。

 夕方、定時で帰れる日は、「いきいきホットライン」が意外と面白い。
 色々な活動をされている人をゲストに呼び、お話を聞く内容だが、とってもためになる事も多く、話の種になるような貴重な話題が隠されている。

 先日は、「楽しんでいますか、“活字文化”を」のテーマで、インターネット上で電子図書館を主催されている方がゲストで話をされていたが、興味深い物だった。
 身近に考えると、仕事でもプライベートでも、私の資料の保管は基本的にpdfである。
 雑誌のコピーや、捨てられないリプリント、打ち合わせの議事録、学生の時のノート、これらは全て場所を取る割に活用頻度も少なく、いざ捨てると、後で困る事が多い。
 そんな時は全部pdfにしてサーバに入れて本体はポイ。
 これなら、RAIDでバックアップされているので、重要な物だけ定期的にメディアに落としておけば、いざ必要になった時でも、直ぐに取り出せるし、全く場所を取らない。
 私の場合、それを拡張して、棄ててしまいたい本の必要な所だけをpdf化して、床が抜けそうな位貯まった専門書の処分を進行させている。
 しかし、個人でやっていると手間がかかるのだ。
 そうして考えると、著作権の問題は有るにしても、風化していく書籍の半永久的保管や、その利便性、必要性から考えて、全ての書籍が電子化される事には、ものすごい需要が隠されているなと思っていた。
 事実、お金さえ払えば学術論文の多くは既にpdfとして配布されている。(もちろん、本が本のスタイルをしている事に異論を唱える物ではない。e-inkとか有るが、あんなもので本を作っても、現実的に今の本に置き換わるような事は無い、むしろ両立したり組み合わさったりするような気がする)

 しかし、現実の事情はちょっと違うのである。
 まず、このゲストの方が主催されている「青空文庫」では、基本的に著作権切れの古い文章しか扱っていない(そうでないものもある)。
 このへんから、想像とだいぶ異なっている。
 古い文学作品、しかも昭和初期の文学作品なんてそんなに需要があるの?と思って良く聞いてみると、著作権と言うのは、作者本人の死後50年間継続するらしい。

 ちなみに著作権とは、自分が創造した著作物を独占的に使用できる権利で、無形財産権の一種として著作権法で保護されている(特許と勘違いしてはならない)。
 ゲストの主催する団体は、基本的にボランティアと広告収入で支えられているが、営利目的ではないので、「青空文庫」のデータは、一般公開され無料で使用できるが、著作権料を払えないので、作者の死後50年以上経った、著作権切れの文章を公開しているとの事。(例えば芥川龍之介、国木田独歩とか。有名ではない人の作品も多い)
 著作権の切れた文章は冊子にして販売しても、第三者が好きに公開しても構わないらしい。しかも、そのデータはpdfではなく、テキストとして、ボランティアが自ら打ち込むのだ。

 何故だ、pdfが有るじゃないか、OCR(画像文字認識ソフト)だってあるのに。と、思いながら更に良く聞いてみると、元々、最初は、打ち込んだデータを元に、体裁を整えて、本の様にして公開していたらしいが、何故かオマケで付けて公開していたテキストファイルの方が需要が高まっていき、利用者に聞きいてその方が利用しやすいという事に気が付いたらしい。
 単純な二次加工だけに留まらず、様々な理由で出版されなかった文章も、著作権が切れて初めて採算分岐点を超えて世の中に本として出てくる事も有るらしい。
 その様な隠れた需要に対して、電子図書館が一役買っているのは面白い構造だ。
 その理由として、この「青空文庫」のデータは、一応の決まりはあるものの、有償、無償に関わらず、自由な複製・再配布を許可しており、むしろ「人の思いや考えに、より多くの人が、より自由にふれられるように」と言う考え方の元、このような頒布を推奨している所にある。
 もちろん、様々な問題や反論が有る事と思うが、著作権が切れた文章は、文化的な共有財産とするこの方の考え方には、深く共感する所があり、このような活動をボランティアでされている事に対して敬意を表する。
 以下に、この富田倫生氏の意見を引用しておく。

=====
青空のぬくもりは、誰もが共に味わえる。
一人があずかって、その恵みが減じることはない。
万人が共に享受して、何ら不都合がない。

著作権法が保護の対象とする、創作的な表現にも、万人の共用を許す「青空」としての性格がある。
すでに生み出された表現を分かち合うことに焦点を絞れば、あらためて著作権制度を用意する必要はないはずだ。
自由な共用に任せておけば、それでよい。それがよい。

だが、私たちは、過去に積み上げられた表現を、ただ味わうだけの存在ではない。過去の蓄積に学んで自らを育むと同時に、新しい何かを生み出そうとする主体でもある。
もちろん、高い評価を受けたり、後世に伝わる作品を残せるのは、私たちのごくごく一部でしかない。だが、つくることへの思いは、誰の胸にも育つ。
表現する人に特別の権利を認め、生み出した作品で生活を成り立たせる可能性を示しておくことは、つくることに向かう、私たちの心の励ましとなりうる。

期限を定めてつくった人に特権を認め、その後は、誰もが自由に利用できるようにするという著作権制度の構えは、積み上げられたものを広く分かち合うと同時に、表現の火を、今以降も燃やし続ける仕組みとして、私たちの社会にとって、有益なものと考える。
分かち合うことも価値。つくりだすことも価値。
相反する要素をもつ、二つの価値のバランスのとりどころである保護期間を、日本の著作権法はこれまで、作者の死後50年と定めてきた。
=====
引用:http://www.aozora.gr.jp/soramoyou/soramoyouindex.html#000144

このような考え方は、文学に関わらずあらゆる創作活動に当てはまるだろう。

 どのように、著作者の権利を尊重するかは非常に難しく、著作権の有効期間については、各国により異なっている。
 欧米諸国では70年の有効期間が設けられている。
 しかし、元々は14年だったとの事、ディズニーが著作権延長によるミッキーマウスの独占のために、切れそうになる度に、延長運動を起こして伸ばしてきたと言われている(登録商標や意匠登録は有効期限が短いからか???)。

 日本では、国際調和の大義名分の下、主に音楽業界、特に○名高き「社団法人日本音楽著作権協会 JASRAC」が中心となって、70年への延長を文化庁に求めている。
 個人的には、著作権は著作者の権利を保護する為に存在すると考えているので、その法律の改正が何の為であるのか、を考えればこのような延長は、著作者の遺族の為と言うよりも、企業の為に有るような気がしてならない。
 そもそも、世襲じゃあるまいし、死後70年も子孫に引き継がれるなんて異常だ。50年すら長すぎる気がする。それに、50年から70年になって、クリエイターの創作意欲が向上する筈も無い。そういう意味でも文化的価値が無い(というか文化的価値の向上を阻害している)。

 しかし、そんな事よりも、本当に必要な事は、著作者を尊重する気持ちだと思う。自分がすばらしいと認めた作品に対して、その作者の「気持ち」を尊重する心があれば、安易に著作者の権利を踏みにじる様な行為は起こらない筈だ。
 本人の意思が尊重されてこそ、著作権が生きる物だろうし、法律で規制される範囲内だからと好き勝手に独占使用権を傘に、永遠に他社の参入を認めない企業も、私欲に興じているだけの気がする。

 昨今、HPや、ブログ、フリーソフト製作など、文化的(?)な活動が身近になった気がするが、そういったものがどのような著作権の元に成り立っているのか、考えるきっかけは、こんなラジオの放送の中にもあったりする。

「野鳥と日本の心」 2005.9.30

 最近、欧米のすずめと日本のすずめの種類が違うというのを知って、急に思い出した事があった。
 北海道・函館の元町の外れに函館公園という珍しい公園がある。
 何が珍しいのかと言うと、市民のボランティアと寄贈により作り上げた5万m2に及ぶ北海道発の公園であると言う事も有るのだが、この公園には入場無料の動物園が併設されているからだ。
 どうやって、この動物園の管理費用が捻出されているのか、孔雀、ヤギ、シカ、ワシ、タカ、前はライオンもいた。正直、初めて訪れた時は信じられない気持ちだった。
 しかし、もっと驚いた事があった。それは、この公園に居るすずめだ。

 別に、飼育されているすずめでは無い。この公園には沢山すずめが住んでいて、観光客や地元の住人、飼育されている鳥の餌のおこぼれを貰って暮らしている。
 このすずめだが、異常に人懐っこいのだ。本州(北海道では内地と呼ぶ)では、すずめは警戒心が強く成鳥は人間に慣れにくい。ところが、この公園に居たすずめは、人が側まで来ても逃げない。餌をやると寄ってきて、その内手から直接啄ばもうとしたした程だった。
 すずめの傍若無人ぶりに強い印象を受け今でも記憶に残っている。

 すずめには幾つか種類が居るらしい。日本に居るのは、普通にスズメと呼ばれる「Tree Sparrow」で特徴はほっぺに黒い斑点があること。雛は色が薄いがくちばしが黄色いので直ぐ分かる、通常警戒心が強い。私にとってなじみのある種類だ。
 他には、東北で見られるニュウナイスズメ「Russet Sparrow」がある。ほっぺに斑点が無く、山に住む。しかし、Tree Sparrowよりも警戒心が強い。

 では、私の見たスズメは単に人に慣れたTree Sparrowだったのだろうか?

 ヨーロッパにもスズメが居る、少しだけ大きく、ほっぺの斑点もなく、頭が少し白っぽいが、明らかにスズメの仲間とわかる、家スズメ「House Sparrow」だ。
 家スズメは人懐っこい。人に寄ってきて餌をねだる位だ。ヨーロッパには日本と同じスズメも住んでいるが家スズメに追われて森に住んでおり、街中や郊外では殆ど家スズメしか見かけない。家スズメはヨーロッパ人と共に、オーストラリア、アメリカにも渡って生息しており、更に麦作と共にユーラシア大陸を横断し、サハリンまで達している。
 私の見たあのスズメ達の風貌はどうだったであろうか(今から12年前の話である)?今ではもう覚えていないが、もしや北海道にはもう渡来が始まっているのではないだろうかと思えた。
 事実、礼文島ではHouse Sparrowのつがいが見つかっているらしい。また、北海道は既に入植済みで、本州到達も時間の問題であるとする人も居る。

 実は今、スズメは激減している。
 それは、農村で害鳥として網で捕獲し過ぎたからだとか、巣を作りにくい構造の家が増えたからとか、カラスが異常に増えたからとか言われている。実際に、新聞で目にした人も多いかもしれない。
 ただでさえ住みにくくなった日本に、更により人間と密接な関係を築く家スズメが流入してきたら、かつてのヨーロッパのように、今のスズメが生活圏を追われて山に遠のくか、数を減らして絶滅に瀕する時がやってくるかもしれない。
 気を付けて見てみよう。これから十年もしたら、夕方木に集まってざわざわしている姿や、電線に可愛く並ぶ姿、朝の訪れを告げるチュンチュン言うさえずりは、今と少し違う鳥かもしれない。

   「我と来て 遊べや 親のない雀」 小林一茶

「これからのモノ作り」 2005.9.11

 シミュレーションやってると、なんとなく仕事したような気になって、何にも生み出してないのに、達成感が得られるのは、不思議だ。
 電界シミュレーション、光線追跡等をやっていると、それだけで話が完結してしまって、パテントさえ書いてしまえば、試作しなくても、もういいいや!っていう気持ちになってしまう、なんていう恐ろしい錯覚を起こす。

 そもそも、シミュレーションの重要性は、無駄なTry&Errorを減らし、方向性と最適化を図る指標となる点にある。
 しかしながら、それだけやっていると、間違いに気づかず、結果だけが一人歩きする事や、やっている本人の中で、現実との解離が激しくなっている事に気付かない等の弊害が生じる。
 こういう場合、成果はあまり上がらない事が多い。
 従って、シミュレーションでは、計算した結果と実際の実験結果とを比較し、その違いをチェックし、その原因を探り、シミュレーションのパラメータを補正すると言う作業が最も重要で、PDSサイクルを回しながら精度を高めていく事によってのみ、正しいモデルを生成する事が出来るのである。

   実験計画法(DOE)なんかも似たような錯覚が起こる。「最小の努力で、最大の成果を」と言うのがこの手法の売り文句である。
 直交表を作り、それに従って試作の「因子」や実験の「水準」を割り振る。
 評価結果を直交表に従って入力し、出てきた感度やばらつきから、傾向と効果を知る。
 実に機械的に結果が出てくるので、なんとなくその結果に満足してしまうが、それを信じて先行量産なんかしてみた日には、とんでもない不良が発生したり、全く予想と反する結果が出たりして、痛い目を見る事に成りかねない。
 
 このような問題は、一つには、何でもかんでもDOEを適用しようとするから発生する。
 そもそも、直交表を作る時点で使い方を間違えて、結果の解釈が不可解になる事はよく散見されるが、それ以上に問題をややこしくするのは、評価方法(測定手法)の特性を知らずに使用してしまう、又は、未熟な評価方法をそのまま使用して、結果が撹乱されるケースである。
 DOEはバラツキを考慮して感度を出力する事になっているが、バラツキが大きければ、当然効果は見えにくくなる。
 また、評価方法は安定している事もちろんだが、それ以外にも、主要な影響を与える要因が因子に含まれて居なければ当然、選択した因子の間接的な効果が複雑に作用し、交互作用に現れない「想定外の要因」を左右して、やはり解釈を複雑にする。
 つまるところ、ある程度評価方法が確立して、定常的に流れているラインに対して、プロセスの評価を行うには役に立つが、未知の世界でモノ作りをする為にはあまり向いていないように感じる。

 もう一つの問題は、DOEが技術者の勘やセンスを部分的に否定している事から、モノづくりの本質に対峙するきらいがあることである。
 モノづくりは、技術者のセンスである。
 「こっちに少し振ったら、ここが変わる、じゃあこっちに振ったら・・・、あれ変だな、なんでそっち行くんだ、ああ、こいつが悪さしてんのか・・・」
 なんていう失敗によって形成されるセンスと言うものを、無駄の排除と言う言葉でDOEは否定してしまうので、失敗の蓄積による仕組みの理解と、勘に対する手ごたえが得られにくい。

 また、DOEは実験サンプルの数を有る程度必要とするので、集中して調べたい要因が有っても、いま必要でない水準や要因を無理やり組み込んでやらないと直交表が作れず解析できないという、一見無駄が無いようでいて実は無駄が多いことは多く、結局はケースバイケースで使用するべきものなのだ。(DOEには小さな実験用に、一元・二元配置法があるが、これはただの統計解析と違いが無いように思える)
 そういう観点からは、単純に多変量解析を利用して、自由に設定した幾つかの実験結果を総合的に解釈する方が、よっぽど自分の勘や当たりを確認する直接的なモノ作りのやり方だと私は考える。

 今日、CAD・CAMや統計手法は、メーカの当たり前のツールになっている。もはやこれなくして、モノ作りは成り立たないと感じる業界はもの凄く多い。
 しかし、アメリカの成果主義を日本の企業にそのまま適用しようとした時の様に、実際には取って付けただけの制度、技術、ITシステムが多くはないだろうか?それによって多大な手間や作業、チームワークの欠如が引き起こされてはいないだろうか?
 企業経営にとって、情報技術運用の重要性(個人情報保護も含む)が益々高まってきている。
 何を何に使うか、お金や人だけでなく、技術の適用には、そのものの特性と効果を正しく認識し、パラダイムに合わせて調整するセンスが必要である。
 無理やりパラダイムを新システムに移行させようとすると、足元をすくわれて、大きなリスクを負うことになるだろう。お互いの歩み寄りが必要である。

「スターウォーズ完結に寄せて2」 2005.8.14

 そんで、やっと見てきた。
 いやー、流石良く出来てたよ。
 珍しく、劇場で眠くならなかったもん。最後まで集中して観れた。
 しかも、誰もが納得する内容ではないだろうか?
 アナキン君が悪に染まっていく過程や、ぼろぼろの体に成り果てる経緯はもとより、

 ・オビワンやヨーダがヒッキーになっていた訳
 ・また長い潜伏期間何をやっていたのか?
 ・何故あの二人だけ死体が残らなかったのか?
 ・ルークとレイアが何故全く異なる境遇で育てられたのか?
 ・ダース・シディアスの正体

 等が語られている。
 しかし、個人的には幾つかの疑問は残った。

 ・レイア姫は、一体どこのお姫様?
 ・アナキンはミディクロリアンから母親の母体を通して直接生まれたの?
 ・オビワンは何故止めを刺さなかったのか?

 また、以前私が書いた、ジェダイとシスの関係については、今回の完結編で、実際は以下の様になっていた。
 ネタばれなので、伏字で書き直すと・・・

 「善」:ジェダイ→共和国と癒着→戦争→アナキンとクローン戦士によるクーデター勃発・ジェダイ壊滅→パルパティーンによる元老院乗っ取り・共和国は銀河帝国へ↓・・・・・・十数年後・・・・・・反乱軍発生→ジェダイ復活(でもルーク一人だけ)

 「悪」:シス→通商連合(分離主義者)を裏で手引き→武力封鎖→戦争→シスの裏切りでアナキンによって分離主義者殲滅× ↓共和国が銀河帝国へ進化・ダースシディアスは皇帝へ→デススター建造→破壊→懲りずにもう一回建造→破壊・滅亡

 と言う事でした(多分)、いや本当ややこしい。
 しかし、この二つの勢力を本当の意味で操っていたのはダースシディアスであり、この意味でエピソードVは善と悪の境が無くならない間でも、近い概念として描かれている。
 本来、外交的な役割を担っていたジェダイが戦争をしたり、猜疑心を露にしているし、シスが目指す世界は暗黒の世界ではなく、強力な指導力に基づく秩序と安全の形成を目指した物だった。
 つまり、スターウォーズの物語の中に善と悪の不明瞭さの影を遺し、単純な勧善懲悪のストーリからの脱却を試みた事が伺える。
 またそうする事で、アナキンの変貌を観客が受け入れやすくする効果もあった。
 いや、もしかすると、フォースの善悪と言う意味では、シンボルとしてのジェダイとシスの絶対的価値は変わっていないだけで、そこに依存する人間や勢力が、この二つの間を翻弄されているだけと考える事も出来るかもしれない。
 あと師弟関係では、ダース・シディアスの師匠や、その後の一弟子総伝の流れは、映画の中ではほんの少ししか説明されないので、正直理解できなかった。

 プレイガス×→シディアス→モール×→ティラヌス(ドゥークー)×→ベーダー(アナキン)

 シス・マスタのダース・プレイガスはシディアスの師匠だったが、寝ている間に殺されてしまった。(シスらしい・・・)シスでは過去の教訓から、師匠一人、弟子一人だそうで、新しい弟子が見つかる度に、古い弟子を処分してきた。そういう意味で、ドゥークーはちょっとかいわいそう。散々利用された挙句、シディアスに裏切られて、アナキンにあっさり殺されてしまう。
 
 監督も明らかにしていないが、アナキンの出生には、実はダースシディアスが関係していたとする噂もある。もし、それが本当なら、この物語はシディアスの物語りといっても良いだろう。

 この映画の特徴をもう一つ挙げると、それは、アメリカ映画では珍しい、「悪の勝利」で完結していることだ。しかも、この悪の勝利がいずれは善の勝利へと導く事が、既に前作で語られている点が面白い。
 ストーリの最終的な帰着点は観客は既に知っている。この映画(三部作)は如何にこの後に繋がるストーリへと矛盾無く、伏線を絡めて、橋渡しできるかに、観客の興味は集中している。
 アナキンはダースベーダとなり、悪の軍門に下ったが、パドメは、「彼にはまだ、正しい心が残っている」と言い残し、ヨーダの捨て台詞「あまり期待が過ぎると弟子に裏切られることになるぞ」、伝説の予言の解釈、「アナキンは、フォースのバランスを取り戻す選ばれし者」は全て、エピソードVIで成就する。

 月並みな言葉だが、もう一度最初から見直したい気分にさせられた。
 もちろん最初からの意味は、エピソード順では無く、製作順にだ。
 それが自然に思える。

「スターウォーズ完結に寄せて」 2005.7.15

 まだ見に行ってないけど。
 多分、そのうち見に行くと思うので・・・・・・。

 最近テレビで盛んに旧作を流してるので、つい見ちゃうんだけど、新たな発見というか、つくづく物語をちゃんと理解していなかったなと思う。

 確か最初の映画(エピソードW)の封切りは小学生の頃だった。
 父と弟が、二人だけで出かけて行って、何故か新幹線(こだま)に一駅分乗り、その後スターウォーズの映画を観て、パンフレットを持って帰ってくる、と言った奇行をした事をよく覚えている。何故あんな事をしたのか今考えてみると非常に不思議なのだが、二人とも、もう居ないので、今更聞く事は出来ない。(一人は多分生きているとは思うが・・・・・・、小さかったので、覚えてはおるまい)

 エピソードXとYは、最近テレビで観て、ようやくジェダイと帝国の関係が理解できるようになった。
 特にエピソードXは、映像も綺麗だし、話の展開や三話完結の中継点として、非常にすばらしい完成度だった。
 テレビ初公開の時にも観ていたと思うが、なんだかよく分からんうちにハン・ソロが壁に埋め込まれた、黒い石膏像みたいになってしまい、「炭素冷却こえー」と、子供心に深く焼き付けられた覚えがあるだけで、話の流れが見えていなかった。

 タイトルも「帝国の逆襲」とか「ジェダイの復讐」(ちなみに、邦題は「ジェダイの帰還」に変わったらしい)とか、ひたすら不毛なイメージのみが頭に残り、「でもダースベーダもジェダイなんだろ?」と、頭の中で勢力図が上手く描けないで居たが、今回、ちゃんと見直して観た事で、ようやく全体が理解できた。
 要するに、ジェダイとシスがあって、一応これらがストーリ上とフォース面での善と悪であり、シリーズの中でそれらが影響を与えている集団や名前が変わっていくのが、ややこしくなる原因だと分かった。

 「善」:ジェダイ→共和国と癒着→戦争→衰退・共和国崩壊→反乱軍→ジェダイ復活(でも一人だけ)

 「悪」:シス→通商連合を裏で手引き→武力封鎖→戦争→帝国へ進化・ダースシディアスは皇帝へ→デススター建造→破壊→懲りずにもう一回建造→破壊・滅亡

 と言う事だと思うけど、違うかな?

 あと師弟関係が旧作と新作で腑に落ちない部分があるんだけど、まとめると・・・・・・。

 ヨーダ→ドゥークー→クワイガン→オビワン→アナキン(ダースベーダ)

 旧作では、オビワンが、「ヨーダが私の師だ」みたな事言ってるのでややこしくなる・・・・・・。
 また、メイス・ウインドゥの系列とかは全然出てこないので、気になる。
 小説とかアニメなんかには詳しい事が描かれているかも知れない。
 あと、エピソードYの最後のシーンで、でぶでぶダースベーダが若い頃のアナキン君(ヘイデン・クリステンセン)に変わっていたのは驚いた(オビワンはじじいのままなのに!)、多分特別編とやらのせいだろう。

 封切りから20年以上経った今だから、スターウォーズが、ハリウッドのヒット作を生み出す為の基本的要素が沢山詰まった映画である事もわかった。
 一作目のストーリー展開が、「七人の侍」そのままである事はあまりにも有名だが、ギャグキャラクターとしてのC3POや、マスコットとしての可愛さを持ちながらも、ピンチには主人公を助ける頼もしさを持つ、R2D2など、キャラクターの配置とシリーズを通しての出演は、続編の典型である。

 また、勧善懲悪という分かりやすいストーリー構成はそのままに、後に悪の象徴となるダースベーダのアナキン時代を主人公として描く事で、ドラマ性を高める事に成功した点も見逃せない。
 「なぜ、あのアナキン君が、ダースベーダに・・・・・・」
 そんな思いが観客を劇場へと動員する、巧みな映画のプロデュースも見事である。

 また、旧作では疑わしかったヨーダの実力が、新作では見事に観客を打ちのめした。
 杖を突きながらドゥークー卿の前に現れたヨーダが、ライトセイバーを手にしたとたんに、バク転して飛び回るシーンは、「なんでやねん!」と、観客が突っ込むところである。
 しかし、私などは年老いたじいちゃん同士の元気すぎる戦いぶりに圧倒されて、劇場から出てきた時にはヨーダの事で頭が一杯になって、それまでのストーリを思い出せなくなっていたのは、ある面で失敗だったと言えるかもしれない。

 比較されるSFとしては、スタートレックがあるが、此方は映画の方はあまり振るわずである。
 と言うのは、スタートレックは、TVシリーズである為、登場人物の人間性や、ドラマ性、成長、時代考証、科学考証の点で非常に優れた作品完成度を達成したが、残念ながらエンターテイメント性にはやや劣るきらいがある。
 従って、短い時間の映画ではその魅力を描ききれないで、エンターテイメント性を強調しようとするあまり、中途半端に陥る様に見える。
 一方、スターウォーズは壮大な設定試料が有るにしても、科学的な考証よりインパクトや、エンターテイメントとしての利用を優先する事で、映画としての興業に成功したと言える。

 いずれにしても、子供の時に見たスターウォーズは、未来への洞察(遥か昔の話ですけど)と、強烈なインスピレーション、正しい者が勝つという明快なストーリーで僕達の心を鷲づかみにしていたが、いままた、政治的な駆け引き(元老院)や伏線(賞金稼ぎの親子)、人間関係(師弟関係や人間性)という深いドラマで大人になった我々の心惹きつけるこの映画が、完成した事を素直に喜びたい。
 嫁も楽しみにしてるし。

「ぶろぐ」 2005.6.17

 「マヨラ〜」ってなんだ?
 マヨネーズが好きな人らしいけど、どこに「L」があんだよ、マヨナーだろ、とか。
 「アバタ〜」ってなんだよ?痘痕顔の奴かよ、とか。(注:サンスクリット語で「分身」を意味するらしい)

 流行の言葉に一々難癖つけるのはオヤジになった証拠だろう。
 
 そんでもって、普通の日記じゃん?っていうのが、「ブログ」らしい。
 もう少し詳しく言うと、コラムっぽい文体の日記。(・・・それのもうちょっとメジャーで新聞に載ってるのが天声人語)

 「Web log」の意、「ネット上の記録」と訳せば良いのだろうか。
 ブログを扱ったテレビ番組が出来たり(見たこと無いけど)、無料のブログサイトが大流行だったり、気が付いたらそういうのが日本中に溢れ返っていた。
 そう認識するようになったのは、ちょっと前まで(半年位)は全然気にならなかったのに、ここ最近、何か検索すると大量にコレが引っかかってくる、しかも薄〜い情報ばっかり。
 最初は「嫌がらせか!」って思ってたが、最近は「トラックバック」(要するにリンク)とかで、地道に辿っていくと、何とか事足りるようになっていたりして、ま、めんどくさいんだけど、より情報発信が身近に行われるようになったって事かと、感心したりして。(そして良質の情報を集めるのも、ハロー効果で難しくなったとも言える)
 
 もうこのHPも長いけど(全然進歩してないけど)、始めた頃の周りの人のHPには、必ず日記が付いていた。
 個人的な日常を垣間見るのは実に興味深いものであったし、他に日記を曝しているメディアなんて存在しなかった。
 また、多少プライベートを曝した所で何て事無かったのは、今と危機意識が全然違うと感じる。
 具体的な固有名詞や個人特定に繋がる情報は、かなり垂れ流されていたが、「誰がこんなもん読むねん」ぐらいにしか思ってなさそうだったし、読んでる奴もそれがどこの誰が書いていようがそれ程気にもしなかった。
 今でも、そんなHPは幾らでも有るだろうが、全体的な匿名意識はやっぱり上昇してきていると私は感じる。
 
 そんな日記付きのHPに触発されて自分のHPにも日記のような物を付けてみたのが今読んもらってるコレである。
 何でこんな説教じみた、薀蓄にまみれた、自己中コラムになって行ったのか、客観的に見ると自分でも不思議なのだが、情報発信とまでは言わないが、日記がある程度読む意味のある物になるにはどうすべきか?を自分に問いかけた結果、少しずつその方向性へと向かっただけだろう。
 主体的に見たとき、その事の意味は自分自身よく実感している。
 外部に発信しつつも、意識を内側に向けるという事に他ならない。
 事実、同様の形態の日記は、数年前までそこらじゅうに見られた。(そして、人気が出てくるとメールマガジンになったりしていた)

 それが駆逐され、ブログになっていた!
 正確には駆逐されたのではなく絶対数に圧倒的な差が付きすぎたと言うべきなのだが、実際HPの日記部分をブログに載せ変えてしまった人もかなり居るようだ。
 本質的にブログは以前のHPで見られたコラム形式の日記とほとんど同じ物だ。しかしここまで増殖し、身近になったのは、「手軽さ」という特徴からである。
 ブログは、定型フォームが決まっており、HTMLで一からデザインする必要がない。
 飾りや壁紙等のパーツは自分でカスタマイズできるが(例の「アバター」なんかをくっつけたりね)、基本的に文章を打ち込むだけである程度スタイリッシュなHPもどきが作れちゃう。
 後はもうそこに、携帯電話からでも好きな事を書き込めば更新できちゃう。
 早い、上手い、簡単と三拍子揃っていたのが、人気の秘密のようだ。

 もう一つの合言葉は、「インタラクティブ」である。
 情報発信者と読者の両方にとって、非常に身近なコミュニケーションが可能で、読者はその日記に直接コメントを書き込める。
 要するに日記と掲示板が合体しているのだ。
 更に「トラックバック」を使えば、「私も同じようなテーマを書いてます」という事が同じブログ製作者同士で伝えられ、仲間や知り合いが増える機能は、人間関係がドライな現代社会で繋がりに飢えている孤独な現代人の心を潤す。
 このような、web-ring的機能はその母集団が大きい事もあって、莫大な繋がりを生み出し、その結果コミュニティを形成する。
 個人HP全盛の時代では得られなかった巨大なカテゴリー別コミュニティは、企業の宣伝やマーケティング、CRM(Customer Relationship Management)に利用されるようになってきた。

 企業・広報ブログ、まとめてビジネスブログは既にその有用性や効果が認知されている。
 普通のHPと何が違うのか?と言いたくなる所だが、トラックバック等を利用した宣伝効果や、コメントに書かれた反応は極端な場合もあるが、量を稼ぐ意味ではマーケティングに有効とされる。
 また、ブログの掲載内容は、例えば研究所の一開発者の日常や、新製品開発秘話、社長のコラム、販売担当者の苦労話等、もろにやらせっぽかったり、宣伝効果がまるでなさそうな話だったりと、色々。
 その記事に対してトラックバックが掛かる場合、もちろん宣伝にもなるが、誹謗中傷も受ける事がある。
 しかし、相手も同じブログを持つ者である以上、極端な行為は行われにくいという狙いもある。
 実際、大企業の社長が書くブログ等は、一般人の興味を引くし、宣伝効果として大きいので、実際ほんとに書いてるか分からないが(広報あたりがプロットを作るのかもしれんが)社長ブログを採用する企業はこれからも増えるだろう。

 この様にまさに今、繁栄を極めるブログであるが、実の所自然淘汰が始まっている。
 というのはこの様なブームにありがちな断熱膨張、急速な拡大に伴う急速な質と情熱の低下により、ゴミの様なブログが散見されるのもまた事実である。
 これはブログに限った事ではないが、ある程度成長した段階で、良い物が残り、いらない物が消滅し、ある程度の大きさにまとまった状態でメディアとして定着していく事になる。
 その時のサイズは現時点では分からない。しかし、テレビなどで取り上げる行為が逆にこのサイズをしぼめる事にならにだろうかと危惧する(重ねて言うが私は見てない)。
 特に廃り流行の激しいテレビでの扱いは、何でもかんでも持ち上げて、叩き落すのが常である。
 すぐに過去の物として扱われ、ブームの寿命を縮める事になりそうな気がする。

 この文章も何を隠そう、ブログとなんら変わるものでない事をお断りしておく。
 いずれのメディアが台頭しようと、重要な事は「メディアリテラシー」であり、如何にゴミ捨て場からダイヤを見つけ出すかである。
 メディアの拡大は情報を生むだけであり、その事はベクトルを持たない個人には何の意味もない。
 ・・・等と言ってみるテスト。

「壺」 2005.5.28

 もうだいぶ前から、2chにはまっている。
 最近は嫁共々はまっている。

 5年以上前に京都でアングラサイトにはまっていた頃は、「なんだ、また、2chか〜」と言うぐらい、ソースが2chだと馬鹿にしていた。
 その頃はそれ程面白さが良く分かっていなかったし、規模も今ほどではなく同じような掲示板が沢山あったからだ。

 いま、2chは社会的に認められており、ぐっと身近になった。
 テレビや、雑誌に「2ch」として紹介されても多くの人がNHKの事ではなく、巨大マルチスレッド式掲示板の事を認識できる程である。
 しかし、2000年前後の2chはいわばアングラサイトに近い匂いと、黒歴史を有していた事は一般にはあまり知られていない。
 当時のアングラサイトは真偽が入り混じって、様々な情報操作が横行していたから、2chにもそんな思惑が働いて、ひろゆき氏に対する噂が連日の様にカキコされていた。
 そんな中、「IP取得事件」以降、私も胡散臭さを感じて、あまり近づかないようにしていた様に思う。
 まだ慣れていなかったので、荒らし、喧嘩にもウンザリだった。

 あれから何年か経ち、久しぶりにのぞいてみると、そのスレッドの多さと人の多さに驚いた。
 しかも、いわゆる2chねらーという人達だけでなく、一般の多くの人が2chを抵抗無く覘いているのに驚いた。
 カキコはしないが、とりあえず覘くと言う人は身近に幾らでもいる様だ。
 特に身近に感じたのは、良く知っている会社の裏事情がかなりえぐい形で曝されているのを検索で見知った時だった。
 確かに「面白い」と思うと同時に怖さも感じた。

 気を付けないといけないのは、2chというものが全て善意で運営されているわけではないという事。
 基本的に自由なカキコで、善意も悪意も当たり前の様にカキコされているが、それとは別に運営者に雇われた「煽り屋」「削除人」等が情報を上手く操っている可能性がある事を忘れてはいけない。(全員がボランティアだなんて信じられない)
 公平性や、透明性を謳っていても、掲示板の性質上、穿って見てしまうのは昔のアングラサイトを見ていた私の思い過ごしなのかも知れないが、見ているうちにある種のイデオロギーが生まれそうになった時は、ここに前述した事を思い出して、自分を取り戻して欲しい。

 そんな事を差し置いても、実際の所、ヤフニューやアサヒコムを見ているよりも、同じ読むなら2chでニュースを読む方が遥かに面白い事は事実だ。
 そこには、ただ事実を伝えるだけでは無く、様々な憶測や噂がイマジネーションを駆り立てるエンターテイメントとして在るからだろう。
 それだけでも、2chが存在する意味は十分にある。
 そして、いま見ているそのスレッドから、事件や祭りやドラマがリアルタイムで発生していくのを歴史の証人として参加できる事も醍醐味の一つである。
 かく云う私も、祭りの時は夜中まではまりまくった上、会社でも覘いた程で、結局何も無かった時は、「書き込んだろか!」と、怒りを抑えられなくなりそうだった。

 今まで見てて、結構面白かったのは、「ニート君」と「先行者」、「田代祭り」。
 全部リアルで見てたわけではないが、廻って行くと時間を忘れて楽しんだ。
 特に田代砲で田代まさしが、TIME紙の「Person of the year 2001」の一位に成りかけた下りは、感動した。
 2chねらーのパワーの恐ろしさを思い知らされた。
 TIME紙のインターネット投票担当者も、聞いた事も無い日本人の名前がぐんぐん票を伸ばすのを見て、「マサシ・タシロって誰?」って調べまくったであろう事を考えると、ほくそ笑いを禁じえない。
 他にも、個人的には「書いてる途中に襲われちゃうスレ」(何か重大な事をカキコしようとすると、襲われて読めなくなる)や、「AC」(公共広告機構の不気味なCMを愛でるすれ)なんかも馬鹿馬鹿しくて好きだった。

 私は、極一般的な一ネット利用者に過ぎないので、正直、カキコには抵抗を感じるが、2chを見るのは、仕事を終わって帰ってきた私の毎日の日課になっている。
 様々な思惑が飛び交う掲示板は社会の縮図とも言える。
 裏で操っている奴や、落とし穴を掘っている奴がいるのも、バーチャルもリアルも同じ。
 そう割り切って、情報の海に漂うのも、社会勉強の一つとして、役に立つ日が来ると思う。

「フリーノベルの作成ツール」 2005.5.15

 最近、HPのコンテンツにフリーのアドベンチャーゲームやノベルのレビューを加えてみた。
 と言ってもたいした物ではない、せいぜい数行の拙い日記のような物が増えただけだが、いままで色々こつこつやってきたフリーゲームについて何か恩返しのような事がしたいという勝手な思い込みで始めた。

 それだけでも作者の方には十分迷惑な事なのに、そのプラットフォームにまで色々文句を付けようと言うのか、と叱られそうなのだが、たくさんのフリーゲームをやってきて、「プレーヤ」の立場で思う事を記しておくのは何か意味があるのでは?という、はた迷惑な思い込みでちょっと考えてみた。

 あまり興味の無い人には、そもそもどうでもいい事なのだが、敢えて説明すると、世の中には無料でゲームを製作するクリエータの方がたくさんいらっしゃる。
 それだけでも奇跡のような事なのに、その無料でゲームを製作するクリエータの為に、ゲームを作る為の画像や、音楽、ツールを無償で提供していらっしゃる方が存在する。(特に驚いたのは、フリーの声優、いやいや無料奉仕の声優さんまでいらっしゃるとのこと)
 中でも、作者の意図を忠実に表現する上で製作ツール=プラットフォームの役割は大きい。
 いわば、商業ベースのプレステ、ゲームキューブ、X-boxの様に、フリーゲームのノベル製作ツールにも大御所のプラットフォームが存在する。

 ここで取り上げるのは、コミック・メーカ&プレーヤ、Yuuki! Novel、吉里吉里、Nscripter
 
 これ以外にも、オリジナルのシステムや、恋愛シュミレーションツクール、DNML等様々なツールが多数存在するが、基本的に無料で多くの方々から利用されているツールを、代表プラットフォームとして4つ挙げてみた。

 製作者の方々の意見と私の経験で、これらを評価すると、次の様になる・・・。

コミック・メーカ&プレーヤ・・・
 ノベルを作るのは簡単、基本的な機能はあるが、自由度が小さい。
 ある程度使える様になると、もっと自由度のあるツールへと卒業する。
 
Yuuki! Novel・・・
 ノベルというより分岐の多いアドベンチャーゲームを作るのに向いている。
 複雑な分岐をビジュアル化して組み立てられるエディターが売り。
 凝った仕掛けが楽に作れる。
 
吉里吉里/KAG・・・
 最も高機能で自由度の高いノベルやアドベンチャーゲームを作成できる。
 幾つか専用のエディターが有り開発を手助けしてくれるが、タグ打ちが基本。
 機能をフルに使おうとすると、それなりにプログラムの知識が必要になり、上級者向け
 
Nscripter・・・
 タグ打ちが基本ですが、元々用意されている効果や自由度が大きい。
 単純な作業で結構凝った物が作れる。
 初〜中級向け。
 
 
 どれでも、普通のノベルを書くだけなら、ホームページを書くような気軽さで出来るのだが、ちょっと凝った事しようとか、自分らしいインターフェイスや表現を!と思うと、ツールのポテンシャルやデフォルトの効果数なんかがネックになる。

 これは、製作者側から見たツールの評価で、使う時には作品に合わせて選ぶと言うよりは、製作者の都合・好みで決まる物だろうと推測する。
 もちろん、ゲームを作ろうというクリエータの方々は、他のクリエータの作る物にも高い興味を持っているはずなので、当然自分でも沢山のフリーゲームをやって、色々なプラットフォームの使いやすさを体感しているだろう。
 しかし、どのツールでも自由に使いこなせるわけではないので、良いのは分かっていても結果として得意なツールを選択してしまう事になるのではなかろうか。

 では、プレーヤ側から見た時、これらのツールはどうだろうか?

 まず、コミックプレーヤ。
 大抵、評価は低い。
 これだと言う理由でやるのをやめると言う人が少なくない。
 文章が飛ばせないので、分岐があるようなゲームは本当に辛い。
 何度も挫けそうになった。
 あと、字が読みにくく、イライラする。
 履歴を読み直せないのも辛い。
 セーブ数が少なく、選択肢では保存を行えない。
 でも、いきなりフルスクリーンにならない所は安心である。
 話が面白くて引き込む魅力がないゲームをこれで続けるのは難しく、吉里吉里でリニューアルされるのを待っている人は多い。

 次に、Yuuki! Novel。
 評価はまあまあではないだろうか。
 特徴として、必ずと言ってもいいほど分岐が複雑な物が多い(解凍して、あのアイコンが出てくると、気持ちが重くなる事がある)が、早送りがあるのでまあ安心して遊べる。
 履歴は追えないが、セーブ数に制限が無い。
 但し、フラグが立てやすいと言う理由で、何でもかんでも、二週目を作るのは勘弁して欲しい。
 幾ら早送りでも、サウンド待ちやアニメーション待ち等があるのでイライラする。
 あと、これは古いバージョンだけかもしれないが、いきなり、フルスクリーンで始まるのをやめて欲しい。
 怖くて、いつもドキドキする。
 セーブ数が多いのはうれしい。

 次に、吉里吉里。
 これは、基本的に安心してプレイできる。
 「次の選択肢/未読まで進む」や「表示速度」、キー押しによる読み飛ばしなど、必要な機能は十分そろっているし、セーブ数は大抵多い。
 一部のソフトでは、驚くような表示効果があったり、画面が大きかったり、独自のインターフェイスを持ったり、異常な数のセーブ数があったりと、製作者、プレーヤ共に痒い所に手が届く設計がすばらしい。
 欠点は、重い事。
 古いマシーンではメモリが足りなくなったり、動作が遅くてやってられない等の問題が発生する。
 パワーのあるエンジンはシャーシも足回りもしっかりした物を必要とするわけだ。

 最後に、Nscripter。
 これも評判が良い。
 マシンパワーが無くてもさくさく動く、フォントもきれい、読み飛ばし、読み直し、及第点である。
しかし問題もある、同時に二個は動かない、セーブ数が少ない、等がそうだ。
でも、作り手側も読み手側も、そこそこバランスが取れているのは、このツールではなかろうか。
流石にカスタマイズした吉里吉里にはかなわないが、パフォーマンスも高い。

 ・・・以上、思った事を書いてみた。
 結局、コミックプレーヤ以外、どれを使っても大きな問題は無いんだが、プラットフォームには独特の癖があって、その癖がびみょーに作品の完成度に影響を与えてると思う。
 テクニックの問題かもしれないけど、作者の意図と表現のされ方が違っていて、プレーヤにも違和感を感じさせたり、同じプラットフォーム使ってると作者が違っても、印象が薄くなって均質化したり、プラットフォームによってその度合いが大きく異なるのも、気のせいではないと思う。

 コミックプレーヤも、悪いばかりではない。
 「書きたい!」「あんなノベルゲームが作りたい!」っという初心者のストレートな情熱を「鉄は熱いうちに打て」的に一気に形にするには優れているし、そういう情熱が伝わってくるものは確かにある。
 でも、独りよがりだけに終わらず、せっかく作ったんだから、出来るだけ沢山の人に、自分の物語を、より忠実に、気持ちよくやってもらいたいと思った時、一般公開前に、パイロット版としてテストプレイしてもらった上で、別のプラットフォームに移植する事が完成度を上げる手段ではないかと思う。
 そうする事で、新しいアイデアを組み込んだり、落ち着いて演出に力を入れたりする事が出来るのではないだろうか。
 だから、私は言いたい、「本当のロックンロールを目指すなら、内田裕也のロックンロールオーディション!」元い、「本物のAVGを目指すなら、吉里吉里!」

 これってやっぱり消費者心理的わがままだろうな、作り手の苦労が分かってない。
 「お前がやってみ!」って言われそう。

「HDレコーダと多様化するテレビ放送」 2005.4.24

 一昨年前に東芝のRD-XS40を買って愛用している。
 そもそも、洋もののドラマのビデオが管理できない程に溜まって、省スペースとライブラリ管理の運用しやすさを考えて購入したのだが、実際にはDVD-RAMへの置き換えはそれほど進まず、逆に便利さの為か録画量ばかり増加する羽目になっている。
 機種選定の決め手は、パソコンにLANでつないで録画管理やタイトル管理出来る点で、インターネットの
 番組表を利用しながら編集できる操作性で東芝は他社に抜きん出ていた。
 購入に際しては、インターネットでかなり綿密に価格調査と機能比較を行ってから、商談を行ったので7万円台で購入する事が出来た。
 当時としては最安値に近かった。
 使ってみて、やはり目からうろこが落ちるくらい便利だった。
 CSは3年前から利用し続けている。
 それまでは、ケーブルテレビに2年加入していたが(その前には二年間有線も利用していた)、CSに変えてからは値段も安くなったし、余計なチャンネルが減って見たいチャンネルが増えたので、大変有効だった、最近は引越しに際しては必ずアンテナが南南西に立てれるかどうかで住む家を決めているほどだ。

 知らない人もいるかも知れないので説明しておくと、ケーブルテレビの放送は、一部オリジナル放送もあるが、地上波やBS、CS等の放送を有線で流しているだけで、実際にはほとんどのチャンネルがCSの番組だ。
 ケーブルテレビは地域で流す番組が決まっているので、選択の自由は無く見たくない番組も組み込まれて一律に請求される。WOWOWや衛星の番組は別料金でお金を払いたくなければ、見ないように設定してもらうしかない。
 そうしなければNHKの衛星料金を見てもいないのに請求されることになる(全部で9000円くらい。ケーブルだけにしても5000円くらい)。
 CSでは普通パックで3500円位のものを選択する。
 パックには幾つか種類があって、ケーブルで流されているような視聴の高い一般的な放送のほとんどは全てのパックに組み込まれていて、それぞれのパックで重視するコンテンツが異なるように個性が設定されている。
 例えば自分の見たい分野によってスポーツ重視のパック、映画・ドラマ重視のパック、音楽重視のパックを選択すればよいわけである。

 そして、最大のメリットはCSでは向こう一週間の番組情報や番組表がリアルタイムでチェックでき、同時に予約が出来る点にある。
 ケーブルでは毎月送られてくる番組表を見ながら設定作業をしなければ予約できないが、CSでは番組表で予約ボタンを押すだけである。
 デメリットはほとんど無いが、強いて言えば、雑誌感覚で一月分の番組表を見ながら見たいテレビをながらにチェックする楽しみがなくなり、インターネットで各チャンネルのHPを見ながらチェックするやり方に変わってしまい、興味のあまり無いチャンネルの放送はあまり気にしなくなる事だろうか。

 この様な多チャンネル時代になって困るのは、録画量が莫大になった事だ。
 だからと言って、HD容量を大きくしてもあまり意味が無い。
 RD-XS40は160GBの容量があり、最近のHDビデオに比べれば確かに少なめではあるが、容量が足りなくて困ったことは一度も無い。
 それはとりあえず面白いかどうか撮るだけ撮って、面白くなければ消してしまうし、残したいものはDVD−RAMに移動するから、HDには一定量以上にならないように管理されているからだ。
 逆にもしこれ以上の容量があったとしても、大量のコンテンツをぎりぎりまで録画してから管理するようなやり方では作業時間が掛かりすぎてとても管理できないと思う。
 ユーザから見てこれから本当に必要な技術は、
 @DVD-RAMの容量を上げる事と、
 Aエンコードの圧縮率を10倍位に高める技術と、
 B書き込み速度を10倍以上に上げる事だと考えている。
 Blue-ray等が規格統一され、価格が落ち着けば、上記は幾らか達成されるだろうが、一般的になるのはまだ数年先の事だろうと思う。

 RD-XS40以降に販売されたHDビデオで、気になったのはSONYのPSXだった。
 理由はPS2コンパチで、省スペースである事、容量の割りに値段が安い事。
 自分が欲しいと思ったのではなく、未PS2オーナの購買意欲を高めるのではないかと言う事とこいつがDVD-RWを採用したので、RWユーザが一気に勢力拡大してRAMとの価格差が生まれるのではないかと危惧した為である。
 しかし、仕様を確認して安心した。
 編集機能が貧弱すぎて、ユーザの要求する機能を満たしておらず、HD機能はゲーム機のおまけ的になっている点で致命的だった。
 これなら専用機を買うだろうと、正直がっかりした。
 思えば、あのころからSONYの凋落は始っていた様に思う。
 しかもソニータイマ搭載なら、発動するとPS2+HD機能消滅でダブルショックとなる。

 全く杞憂に終わり、ソニー神話は崩壊した現在、価格下落もそれほどではなく、RAMとRWの勢力は拮抗しており、今の所不公平感は感じない。
 それでも、最近の東芝の新機種の魅力には惹かれる。
 RD-XS5等は、RW+RAMコンパチで、CSチューナ予約連動だし、ダビング速度も早くなったようである。
まだ値段は平均11万円台と高水準で価格を維持しているのでどれ位のタイミングで置き換えるかは、新機種の発表タイミングと、ほとんどは嫁の説得に掛かっている。

「あっという間の3年」 2005.4.11

 最終更新をしたあの日から随分と年月が過ぎた。その間に起こった事は、色々有りすぎてよく整理できていない。その中でも、特に大きかった事は職場が変わったことだろうか。
 正直、仕事のモチベーションを維持するのにこれ程苦労したのは、あの時期以外ありえない。メインテーマが嫌な訳では無かったのだが、それ以外に付随する上司や雑務が重くなっていたという事だろうとも思う。
 やる気がことごとく打ち消される感じで、正直、頑張って成果を出してみたところで・・・、と悩み始めていたところに、異動の話があり、二つ返事でOK。それから、ようやくランプ屋らしい仕事が始まった。
 と言っても、実際にはランプを作ると言うよりも、評価するのがメインの仕事。
 これまでの経験や知識が十分生かせて、評価方法・装置の開発など、やりがいがあるし、何よりも直属の上司がとても信頼できる人で本当によかった。
 今では信頼関係無しでは、絶対にいい仕事が出来ないと、確信している程だ。
 今の上司との信頼感を維持している重要な要素は、
 
 @忠誠心・・・この人のためにも、頑張っていい結果を出すぞと言う気持ち
 Aモチベーションの維持・・・仕事に詰まったときや、悩んでいるとき、いつも励ましてくれる
 B一生懸命さ・・・上司がいつも一生懸命働いているので、それを見ている部下にも気持ちが伝わる
 C人柄・・・人間味がある。話を聞いてくれる
 
 等ではなかろうかと思う。三年前、自分が役職者になってみて思うのは、役職者と言うのは、自分の負の感情を表に出せないし、いつも笑ってばかりもおれず、怒るときは一歩引いた教育的指導を心がけねばならず、なかなかストレスの掛かる立場だなと思う。
 そういう意味では、今の上司は本当に尊敬できる先輩と云える。
 こういうのは役職者研修で幾ら勉強しても、実際に実地を見て謙虚に学ばないと、理解できない。
 
 自分は、管理職はまだ早いと思っているので、出来る限り自分で手を動かして仕事をしていたい。
 さすがに自分だけでは限界があるので、サポートしてくれる人がいるのは大変ありがたく思う。
 自分で手を動かしている限り、勘が鈍ることは無いと思っている。
 そして、自分が技術職である自信は、この勘がなくならない限り揺るがないと信じている。

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